昭和20年(1945)7月28日の艦載機による機銃掃射を目撃した人々の証言第5弾です。

 前回は、松江市宍道町の宍道駅の様子についてお知らせしました。

 今回は、『忌部郷土誌 昭和編』 忌部郷土誌編集委員会 自治協会 1990刊に収録されている松江市の県庁で勤務(勤労動員)していた忌部出身の長岡美恵子さんの証言です。

 

⑦ 松江市殿町県庁近くの様子 【忌部の長岡美恵子さんの体験】
 戦争も終わりに近い昭和19(1944)年になると、男子だけでなく女子も戦争のために働くようになるという話もあり、学生もそれぞれの工場や戦場へと動員されるようになりました。

学生だった私も、松江の県庁の庁舎にあった監視隊に入ることになりました。
 松江市を中心とした海岸や高い山などには、敵の行動を監視する10ばかりの監視硝があり、忌部の東空山にもありました。忌部国民学校の子ども達は、監視硝建設の時、レンガを「おいこ」で背負い、山道を列を作って運びあげました。

 高等科〔現在の中学生〕の男子は、大人に混じって監視役を勤めました。
 それぞれの監視硝からの連絡は、すべて県庁の監視本部へ伝えられるようになっていました。
 忌部の自宅から県庁行きのバスの時間帯が悪く、ほとんど歩いてばかりでした。
 県庁へと歩く途中では、空高くB29が山の上を小さな鳥のようにキラキラ光って飛んで行く姿や、敵の飛行機が大篠津の飛行場に急降下する様子を、遠く山越しに見たものです。
 昭和20(1945)年7月28日の勤務の日、突然空襲警報のサイレンが鳴り出しました。県庁にいた人は大さわぎで、みんな急いで防空壕へ避難しました。私たちは、防空頭巾もかぶらず、監視硝からの連絡を受けるため、電話にしがみついていました。
 敵の飛行機が撃つ機関銃のすさまじい音や、屋根の上に落ちる薬莢の音を今でも忘れることはできません。
 この日、玉造温泉の湯町トンネル付近では、列車が攻撃を受け、多くの人が亡くなられました。

 駅にも薦をかけられた死体が並べられていたと言うことでした。                  
 忌部村役場の近くでも銃撃があり、忌部監視硝からの敵機発見の情報が県庁の本部に入ってきました。

 「敵の飛行機を目の前に見て、どうする事もできずとても無念だ」

という内容の電話でした。
 

【写真 旧島根県庁の庁舎 『図説 松江・安来の歴史』 郷土出版社 2012.3刊より】