今からちょうど80年前の7月の大阪での出来事です。
 昭和19(1944)年7月13日、大阪市の国民学校長会が急遽開催されました。
 その会で、大阪市教育局からの話は、6月30日に閣議決定された「学童疎開促進要綱」に基づく、大阪市における学童疎開実施に関する指令・説明でした。
 ただちに「縁故・集団・残留」の希望調査を各学校で実施し、7月20日頃までに報告することになりました。
 ・国民学校3年から6年までの学童を疎開させること
 ・縁故疎開を基本とするも、頼る親戚なき場合は学校ごとに集団疎開を実施すること
 ・集団疎開参加の場合の経費・必要用具の説明
 校長会翌日の7月14日から数日の間に、大阪市内の各学校で保護者会が開催され、学童疎開の希望調査が実施されることになりました。
 保護者会での説明から回答提出まで、わずか4~5日の期間しかありません。
 しかも、この時には、集団疎開させる場合の疎開先府県は未定の状況での判断だったのです。
 その時、各家庭ではどのような相談がされたのでしょうか。
 学校の教師たちは、どのような対応を迫られたのでしょうか。
 疎開は、原則「希望」によるものでしたが、厳しさを増す戦況の中で、学校からの強力な勧誘を受けて、「疎開する」という我が子や家族の人生を左右する決断を迫られたのです。
 そして、大阪市民は7月18日の新聞で、初めて「学童疎開」が実施されることを知るのです。

【写真 大社・荒木へ疎開した西六国民学校の児童たち】