6月20日のブログでは、島根県大田市波根町での機銃掃射について紹介しました。
この波根地区には、8月6日の広島原爆投下にかかわる記録も残されています。
『波根東村』田中通2007.2刊には、
「奥様(田中アヤ子・久手の青年学校勤務)が「大田の町の人から聞いたが、南の空からきのこのような形の雲が上がるのが見えたが何だろうかと話していた」と心配そうな顔をしている。大田の人は南方にひろがったきのこのような形の雲が見えるだろうが、波根東村の南の空は富山村から三瓶山にかけて山がさえぎって見えない。」
という記録があります。
また、中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターの2012年12月3日の記事
「映像で残す古里の戦争~教え子とドキュメント映画 大田二中の山尾教頭」には、次のような内容が紹介されています。
大田市には、当時ヒロシマの病院が疎開してきており、8月7日には300人もの被災者が列車で運ばれ、病院となっていた学校へ収容されたという記録も残っています。
1945年8月、現在の大田第一中学校のある場所は、旧制大田高等女学校(現大田高等学校)でした。
その校舎は広島第一陸軍病院大田分院となっており、広島で被爆した兵士が収容されたのです。
当時の様子を証言した勝部信子さん(当時14歳)は次のように語っています。
「駅から学校に運ばれる途中で息絶える人が大勢いた。」
「教科書に載っていたように「天皇陛下万歳」と言って死ぬ人はいなかった。みんな「お母さん」と呼んでいた。」
「戦時中は自由ってものが全然なかったから…」
島根県大田市をはじめ、島根県内には、ヒロシマとつながる場所が多く存在しています。
【大田高等女学校 県立大田高等学校HPより】