太平洋戦争末期の昭和20年7月28日、四国沖に迫ったアメリカ機動部隊から飛び立った艦載機は、海軍大社基地をはじめとした島根県東部の各地域に対して攻撃を行いました。
 この日の攻撃により大社基地では3名の将校が戦死した他、段原鉄橋や出雲市駅付近など県内各地が攻撃を受けました。
 
『開校百周年記念誌』S49.11刊西須佐小学校編によれば、当時西須佐国民学校に勤務していた常松武男氏は、空襲当日の様子について、次のような手記を残しています。
 

「時に思い出深い事は、上司の命令で仕方なく村長様の制止もしりぞけ、高等科児童全員をつれて、簸川郡外園海岸へ10日間の予定をもって製塩に出かけた事です。
 それが昭和20年7月のたしか20日だったかと思いますが、夏の暑い好天気でした。須佐駅から汽車で出雲市駅に下車する間もなく、敵のグラマン戦闘機が東から発砲しながら西に通りぬけたのです。
 あの駅から駅通りにかけて見えていた人影が全部見えなくなってしまいました。しかし幸いに私達は一人も災難に逢わず、恐ろしさの中にも皆が安心したことでした。」


 文中には「7月20日」とありますが、7月28日の誤りではないかと思われます。
 この時、出雲市駅に西須佐国民学校高等科の生徒は69名いたようです。

 この数は、高等科の20~21年度卒業生名簿から割り出した人数です。
 当時の高等科2年生が35名(男15,女20)、1年生が34名(男16女18)でした。

【昭和59年3月廃止となった西須佐小学校】