「対馬丸」とともに本土を目指した子ども達 | PIECE of PEACE 島根教師の会

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私たちのふるさとに残る戦争を伝えよう

 沖縄首里第二国民学校元生徒有志で組織する楢木野会発行の『五丈の松と大いちょう』を読みました。
 太平洋戦争末期の昭和19(1944)年8月22日の夜10時過ぎ、アメリカの潜水艦から発射された4発の魚雷を受け、わずか10分余りで沈没した那覇の国民学校の児童を乗せた対馬丸。乗船していた834名の学童のうち生存者はわずか59名。対馬丸の犠牲者の半数は、学童疎開の子ども達でした。
 首里の国民学校の学童達が乗船した船は「暁天丸」。

 わずか6~700m先であっという間に沈んでいった対馬丸を、首里の子ども達は目撃していたのです。
 僚船「和浦丸」とともに魚雷を避けながらジグザグに航行する中で、暁天丸は和浦丸の船尾に追突する事故も起こしながらの航海だったと記録されています。
 到着後の疎開生活は、全国の集団疎開の様子と共通する部分が多くあります。
 しかし、疎開先の熊本では40年ぶりの寒波が襲った冬でした。
 寒さに慣れない沖縄の子ども達は、次々と凍傷にかかっていったそうです。
 そして「沖縄は全滅したそうだ。」と聞かされ、家族を思って号泣した子ども達。
 ふるさと沖縄への帰還は昭和21年10月と、全国で一番遅くなりました。(通常学級の学童集団疎開として)

【写真 宮里宏さんの挿絵】