太平洋戦争末期の学童疎開に関する情報を集めるため、インターネット検索する中で、
 
2023年6月22日付け琉球新報の次の記事が目に留まりました。
 その記事の一部を紹介します。

 ~学童疎開の手記、36年越しに発刊 首里第二国民学校の体験者「沖縄楢木野会」~
 首里第二国民学校(現在の那覇市立城西小学校)の学童疎開体験者らでつくる「沖縄楢木野(ならぎの)会」はこのほど、学童疎開記録集「五丈の松と大いちょう」を発刊した。米潜水艦に撃沈された対馬丸と同じ船団などで集団疎開した。熊本・阿蘇での疎開体験や思いがつづられている。
 会発足は1987年。会員から手記を集め、編集を進めてきた。5人の編集委員のうち3人は16年までに死去。最年少だった玉城盛松さん(85)が中心になり「手記を書いた方々の思いを後世に伝えなければ」と妻のよし子さん(79)と編集に取り組んだ。


 沖縄では、昭和20年4月から6月にかけ、住民を巻き込んだ激しい地上戦が行われました。アメリカ軍の来襲を避けて、沖縄の学童や高齢者は、本土や台湾への集団疎開が強行されました。
 その中で、昭和19年8月22日の夜10時過ぎ、鹿児島県悪石島附近でアメリカの潜水艦による魚雷攻撃を受け、1661名を乗せた「対馬丸」が沈没する悲劇も発生したのです。
 沖縄の多くの子ども達が、危険な海を越えて本土に集団疎開した事実があります。
 早速、沖縄の玉城ご夫妻へ連絡を取り、貴重な記録集『五丈の松と大いちょう』を分けていただけることになりました。
 その内容は、ぜひこのブログにおいて皆さんにも紹介したいと思います。


【『五丈の松と大いちょう』から】