終戦まで約1ケ月となった昭和20(1945)年7月5日(木)、出東国民学校の奉安殿に納められていた「御真影」が、空襲の危険を避けて久多美村へ奉還されました。

 地元の国民学校の児童はと言えば、前の週の6月30日(土)に学徒隊結成式を行い、西船場国民学校の児童も参列しました。

  そして、7月8日(日)には熊野神社で西船場学徒隊の結成式が開催されています。
 斐川に疎開していた堀江・西船場両国民学校に対しては、再疎開の指令は出されていなかったようです。

 地元住民の間では、「西船場校の再疎開が決定した」との噂がたっていたと佐藤訓導の記録にあります。
 また、7月15日の山下校長先生あての手紙には、出東の動きが次のように報告されています。

「最近、島根県で疎開市町村が指定され、簸川郡では、荘原・直江・伊波野・出東・久木・出西の六村がふくまれています。出東校の御真影は既に他に奉還され、一同奉送申上げました。また縁故疎開を極力勧め、残余は地域制(少年団分団制)複式授業を受け、一人の先生が初等科一年より高等科二年までの児童を一括指導しています。県民の声としては集団疎開の実施を要望する向きもあり、島根新聞の投書欄も、最近この件について活発になってまいりました。」

 御真影は戦争被害を避けて真っ先に避難し、危険が高まる出東には子ども達はじめ地元住民が残される。

 戦時下においては何が大切にされ、何が犠牲になるかがよくわかる事例です。

 これは、全国各地において起こった出来事です。
 そして
7月28日(土)には、田の草取り作業を終えた引率の佐藤納先生と6年女子達が敵機の機銃掃射を受けます。

 その時の状況が、『出東だより第一巻』に次のように記録されています。
「豆粒大の敵機が真正面を見せてぐんぐん大きくなった。バリバリと音が聞こえた。子供達と一緒に田の草取りに出ていて民家は遠く、警戒警報のサイレンを聞いてから敵機の攻撃までの間に田ばかりの平坦な場所から抜け出られなかった。溝の中へみんな伏せさせたままだった。寮の西南隅を10m離れた田の中に爆弾(不発)を落としていった。」
 この日に投下された不発弾の影響で、喜見寺寮の6年生女子は近くの熊野神社へ避難し、一晩を過ごしています。

 太平洋戦争末期、穏やかだった農村も戦場と化した状況でした。
 【御真影を納めた荘原国民学校の奉安殿】