これまで、太平洋戦争末期に島根県へ集団疎開した大阪西区の国民学校について調べてきました。その文献調査の中で、「私と西船場国民学校」とのつながりを発見できました。
 もちろん、私は大阪とは縁も所縁もありません。家族・家系をたどってみても、すべて島根県内の出身であり、大阪との繋がりを見つけることはできません。
 
佐藤納氏の『出東だより 第4巻』を読んでいた時、はっとさせられる一文と出会うことになります。その文章は、昭和20年6月11~12日に大水が出た記録の中でした。
「…(前略)…6月11日の夕刻からぽつりぽつりときた雨は、12日の夕刻まで激しく降った。…(中略)…夕刻漸く雨は上がったが雲は暗かった。橋は水とすれすれにあった。
清井(古川賢市氏宅・母がいる)から南へ出て帰る道は長靴が水にはいってしまった。…(略)…雲島作業員の妹さんが荘原から九百匁の鯉を持ってきて半分母に分けてくれた。…(後略)…」
 
ここに登場する「清井」とは、私の父の実家なのです。私も小学校の頃までは、父に連れられて出東黒目にある清井の家へ遊びに行ったものでした。
 まさか、父の実家に佐藤納先生のお母様が寄宿しておられるとは、この時までまったく知りませんでした。
 そう言えば、清井の家の門から入ってすぐの広い庭に立つと、正面には藁ぶき屋根の母屋があり、右手側には一段土台を高くした別棟が建っていたことを覚えています。
 その別棟についての詳しい記憶はありませんが、昔養蚕の作業場であったような気がするのです。子供時代の感覚ですが、とにかく大きな別棟であったという印象が今でも残っています。
 
佐藤納先生のお母様が出東においでになったのは、昭和20年3月の第一次大阪大空襲の直後ではないかと思われます。

『出東だより 第1巻』には、
「妻は出東国民学校へ奉職して、村の郵便局長の持田晋氏の家の一室で母と暮らしている。」
との記述がありますし、『出東小学校開校百周年記念誌』には、奥様・佐藤文子先生は昭和20年6月から23年3月まで出東国民学校で勤務された記録が残っています。
 この記述から、奥様が大阪から出東へいらっしゃった6月を契機に、お母様も清井の家から持田氏の家へ6月下旬頃にお移りになったようです。
 集団疎開の歴史を調べていく中で、自分につながる歴史の一端を知ることになるとは、思ってもいませんでした。

 下の地図中には「青井」とありますが「清井」の誤記だと思われます。清井の家の場所に間違いはありません。
【出東村黒目・三分市の説明地図】