学童集団疎開の島根県への受入は4回にわたって実施されました。『出東だより』記載内容からまとめると、

昭和19(1944)年9月23日に到着した第一次集団疎開、12月7日到着の第二次、昭和20(1945)年4月17日(火)到着の第三次、6月23日(土)到着の第四次集団疎開です。
同じ集団疎開と言いながらも、昭和20年からの集団疎開は、前年とは様子が大きく変わってきました。

大きな違いは次の4点にまとめられます。
①新たに国民学校初等科1・2年生児童も参加
千船国民学校の1・2年生が荘原村宗玄寺へ堀江校と合流

大和田西国民学校の1・2年生が久木村月光寺へ西船場校と合流

②大阪府内に疎開していた国民学校が島根県へ再疎開
昭和20(1945)年5月14日に次の学校が島根県内へ再疎開しました。
 
桃丘・上本町・大江〈天王寺区〉長橋〈西成区〉→飯石郡内へ
 生江<旭区>東田辺<東住吉区>→邑智郡内へ
 依羅・敷津浦<住吉区>→能義郡内へ
 桑津<東住吉区>→安濃・邇摩郡内へ

③四国へ疎開した国民学校の新規疎開参加学童を、西区内へ転籍して島根県へ疎開
当初、6月1日大阪駅発予定でしたが、続く大空襲のため延期され6月23日到着になったようです。
 
大和田西国民学校(西淀川区)…徳島→島根県久木・出東〔西船場校へ転籍〕
 大和田東国民学校(西淀川区)…香川→島根県大社町〔本田校へ転籍〕
 千船国民学校(西淀川区)…香川→島根県荘原村〔堀江校へ転籍〕
 香蓑国民学校(西淀川区)…香川→島根県木次町〔九条東校へ転籍〕
 姫島国民学校(西淀川区)…徳島→島根県広瀬町〔広教校へ転籍〕

④島根県内に疎開していた学校が県西部へ再疎開
 日吉・高台・花園国民学校昭和20年7月に邑智郡内へ
 西六・本田国民学校が8月15~18日で浜田へ再疎開予定。西六校は8月15日浜田駅まで移動し、そこで終戦を知ったようです。

 様々な国民学校が様々な時期に戦禍を逃れて移動し、太平洋戦争末期の混乱もあって詳細は明らかになっていません。
自国の内海である瀬戸内海すら安全に渡ることができない、疎開列車も空襲の危険を避け緊急避難停車しながら島根県へやって来たようです。
 すでに日本国内と言えども、安全な場所はなかった様子がうかがえます。

【堀江・千船校の1・2年生の集合写真~荘原村宗玄寺】

『斐川と学童集団疎開』〔斐川町H13.3刊〕より