昭和19(1944)年9月に大阪西区から島根にやって来た14校の国民学校児童3000人を待っていたのは、20年ぶりと言われたほどの大雪でした。『出東だより』には、天気の記載が次のようにあります。その一部を紹介します。
【昭和19(1944)年12月】
12月2日(土)…激しい吹雪となる。子どもの部屋へ火鉢を入れる
  
3日(日)…雪と霰が降る。午前中に白くなる。
  
4日(月)…霰が降る〔5日(火)午前中も霰〕
 
 7日(木)…霰降る。昼過ぎに地震がある。
  
8日(金)…激しい霰降る。
【昭和20(1945)年1~3月】
1月13日(土)…朝早く地震がある。
  
14日(日)…夜に地震がある。
  
16日(火)…雪が30cmくらいある
  
25日(木)…雪が七分くらい融ける。
  
27日(土)…一日中雪降る〔28日朝まで降り続ける〕
2月23日(金)…雪が融け、フキノトウが顔を出す。
  
25日(日)…朝から大雪。夜までに30cm以上積る
3月  2日(金)…今年初めての雨。温かくなる。
  
9日(金)…素晴らしい天気〔これ以降雪記載なし〕
  
25日(日)…4月2日までずっと良い天気が続く

 「出雲地方の冬は寒かった」という疎開児童の感想は、大社に疎開していた中山耕一さん(本田国民学校)や、高田康子さん(西六国民学校)からも寄せられています。コタツや火鉢で、山陰地方の冬の寒さに耐えた様子が伺えます。
 また、
必要となる燃料については、「木炭の心配はなし」との記載があり、十分な量が配給されていました。
 しかし、
「薪」の入手には問題があったようです。薪については、製材の切れ端が配給されるようになっていたました。しかし、配給場所が平田や荘原の製材所であったため、学寮までの輸送手段がなく、輸送を依頼すると薪の価格よりも運送費の方がうんと高くなるため、運搬回数を極力減らしていたようです。
 疎開児童による薪採りの記載は、昭和19年10月12日と昭和20年5月10日の2回だけです。配給だけに頼らず、村へ依頼して荘原神庭にあった村有林へ薪取りに出かけています。この薪問題により、入浴は3日に1度の頻度の記録が残っています。〔昭和19年の状況〕

【昭和20年1月の観音寺学寮の様子】