大阪の集団疎開学童の疎開生活は、昭和19(1944)年9月から昭和20(1945)年11月まで1年以上にわたって続きました。
疎開地の村人は、大阪からの疎開児童をどのように迎え、どのような関わりをもっていたのでしょうか。

西船場国民学校訓導・佐藤納氏『出東だより』に見られる地元住民による疎開児童支援に関する記載を紹介したいと思います。
 

≪昭和19〔1944〕年≫
9月23日(土)
【荘原駅から荷物運搬】国民学校児童に荷物を持ってもらったり、車に積んでもらう
【到着日の夕食】赤飯と魚のご馳走に子ども達は気をよくした
9月25日(月)
【入校式の昼食】入校式後、礼法室でお茶と餡子入りのお餅が出て子供ら大喜び
10月8日(日)
【地域からの差し入れ】傷痍軍人会から、サツマイモ3箱の差し入れあり
10月9日(月)
【熊野神社例祭の日】西光寺の方が奔走し、小豆と餅を集め児童にぜんざいを準備
10月の記載から〔期日の特定なし〕
【食料事情】村からの配給・寮の近くの方からのもらい物で、カボチャ・ナス・サツマイモを朝食や間食に利用
【女学生の奉仕】地元の平田高等女学校生が寮に寄り、庭掃きや食器洗いを手伝う
10月18日(水)
【荷物運搬】追送の荷物を出東国民学校5年生以上の者が荘原駅から寮まで猫車で運ぶ
12月7日(木)
【出迎え】第二次疎開の児童を、地元国民学校の教員・児童が迎える
12月の記載〔期日の特定なし〕
【食料事情】間食は日曜と水曜日。村の婦人会と傷痍軍人会の協力による
 

≪昭和20〔1945〕年≫
1月3日(水)
【贈り物】村婦人会からの小豆と餅で、寮の砂糖を一貫使ってぜんざいを作る
2月28日(水)
【送別会】作法室に西船場校児童が集まり送別昼食会。送別式に国民学校児童参列
【駅での送別式】「村の主だった人、寮の近隣の人、山を築きて別離を惜しむ。窓より半身を出して、名残を惜しむ。列車去りていくばく、人去らずして万歳の声あり」〔6年児童帰阪〕

9月18日(火)~10月3日(水)

【個別引揚げ児童への土産】米やさつま芋の土産をリュックサックに入れ、手に持ちきれないほどもらった

11月9日(金)

【疎開終了し帰阪】夜具と残りの荷物の荷造りを地域住民4人も協力する

 『出東だより』では、出東村の様子が中心に描かれています。疎開学校にとって切実な問題は、食料確保であったと思われます。ふるさとや親元から遠く離れ出東村へやって来た大阪の子ども達を、出東村の人々がこれを温かく迎え親代わりとなって心を配り、物心両面にわたる支援を行った様子が描かれています。

【西船場国民学校と地元生徒との対面式】