これまで、「広島電鉄家政女学校と島根県とのかかわり」について4回にわたって書いてきました。

 前回、『チンチン電車と女学生』を紹介しましたが、その中の「広島電鉄の電車網整備の歴史」に関心が向きました。
 広島は日清戦争の際、第五師団司令部に大本営が置かれ、明治天皇はじめ、伊藤博文総理大臣ら閣僚も市内に宿泊し、軍都として大きく発展しました。
 
1889(M22)年に宇品港が完成すると、広島駅から軍用鉄道の宇品線が新設されました。
 路面電車の拡張は少し遅れ、
1935(S10)年に途切れていた「御幸橋」と「皆実町六丁目」の間をレールで繋ぎ、宇品港まで乗り換えなしで結びました
 そして
、1944(S19)12月末、皆実線〔現・比治山線〕が新設されます。
 
「的場町」から「皆実町六丁目」までの南北2.5kmを新たに繋いで、広島駅から宇品港へ真っ直ぐ行けるようにしたのです。
 その際、
宮島線の「廿日市」と「宮島口」間のレールをはがし、この区間を単線化して新線を開通させました

 物資不足ゆえの一策でした。
 民間鉄道で市民の足とは言いながらも、出征や帰還する兵士とその家族らの輸送が中心であり、貸切で兵隊を輸送することも少なくなかったようです。
 戦争をバックアップする輸送機関としての役割も担っていた路線でした。

 

 ちょうどこの頃、島根県内でも似通った事態が発生していました。
 
1944(S19)年12月10日、一畑電車「小境灘(現・一畑口)~一畑下」区間約3.3kmを営業休止。

 その間のレール等を撤去、産業設備営団へ供出されたのです。
 
翌1945(S20)年3月中旬から、海軍大社基地建設が開始されます。

 その際、真っ先に行われたのが、直江駅から主滑走路建設現場近くまでのトロッコ列車用の線路敷設工事でした。
 
この時用意されたレールは、どこから持ち込まれたものなのでしょうか?
 「撤去された小境灘~一畑下間のレールが使用されたのでは…」の可能性もあるではないでしょうか?


 『一畑電気鉄道百年史』によれば、撤去供出の決定が1944(S19)年11月6日

 「撤去されたレールはその多くが積まれたまま」「名古屋駅構内で目撃された」

との記述がありますが、大社基地建設に使用されたとも、されなかったとも記載されていません。

 大社基地建設は、本土決戦のための軍事上の最重要事項であったはず。 

 また、一畑電気鉄道の軌間は、省線〔国有鉄道〕と同じ1,067mm。

 そのまま山陰本線へ接続利用できる規格のものでした。

 物資不足の中、これを全く使うことなく、他所からすべてが持ち込まれたのでしょうか?

 それとも一部が使用されたのでしょうか?

 直江駅から基地までの引込線の総距離は、約2kmはあったはずです。
 謎が深まるばかりです。

【『一畑電車写真集』表紙より】