(株)広島電鉄の社史『広島電鉄開業80創立50年史』 (株)広島電鉄 H4.11刊には、当時の家政女学校の生徒であった方々が、平成2(1990)年8月6日に45年ぶりの同窓会を開催した様子が紹介されています。
 その際の懇談で出された意見です。

〔なぜ、家政女学校へ入学志願したのか?〕
・親元を離れて街へ出てみたかった。
・勉強したいのに上の学校へ行かせてもらえなかったので、真っ先に希望した。
・ミシンがかけられるという魅力があった。
・午前中は勉強し、午後は電車に乗って、給料いただ いてとてもよかった。
・和裁から洋裁、お茶にお花など全部教えていただいた。

〔学校生活はどんな様子だったのか?〕
・白菜の中に米粒が数えるほどしか入っていない雑炊を、順番待ちに並んで食べた記憶がある。
・授業中居眠りする生徒も多かった。勉強と勤務の連続で疲れているので、可愛そうでしかるわけにはいかなかった。
・見よう見まねで運転していた。当時を思い出しても足が震える。

 

 昭和18(1943)年4月に開校し、昭和20(1945)年に一人の卒業生も出すことなく廃止となった広島電鉄家政女学校。

 そこでは、14~16歳の中・高生達が、軍都広島の輸送を支える戦士として生きていた事実があります。

 その女学生の中には、多くの島根県出身者も含まれていました。

 二期生の堀本春野さん〔旧姓:赤松〕さんの御両親は島根県出身。お母さんは吉賀町柿木の出身です。春野さんは広島市出身ですが、島根県と縁の深い方です。
【堀本春野さんの8月6日その時】
・8月6日(月)からは午後番のため、寮で食事中。
・自分は窓を背に坐っていた。
・天井は傾き、机や椅子といっしょに吹き飛ばされた。運動場へ出てみると寮は傾いていた。
・防空壕へ入ったが、友達と逃げたした。
・御幸橋から宇品へ向かう時、大勢の人が逃げ惑っていた。

・本社で専攻科の人に会い、実践女学校へ避難した。
・実践女学校には家政の生徒が20人位いて一晩泊まる。 
・翌日、母を探しに、専攻科の松永さんと出かける。
・中島の旅館にいたはずの母を見つけることはできなかった。
・7日の夜から私は下痢になり、薬をもらって1日中寝ていた。
・8日、隣で寝ていた今田愛子さんは「海は広いな」を歌いながら死亡した。
・9日になると動けるようになり、母を探しに行こうとするも、市内電車が運行するので、電車勤務をしていた自分が一番列車の車掌をすることになる。
・己斐の詰所に行き、己斐と天満町との折り返し運転。運行時間も休み時間もなく、客が坐ったら発車する様子だった。
・火傷や斑点が見られる人、身内を探しに行く人がたくさん乗っておられた。
・怪我もなく元気そうに見えた人も死んでいかれる日が続いたが、泣く人は誰一人いなかった。泣くことすら忘れていたのか。
・その後に水害もあり、学校再建も不可能となり、力を落として島根へ帰った。
・原爆孤児になり16歳6ケ月で弟をつれて結婚した。
 
【広島電鉄家政女学校について】
 1942(S17)年11月30日に広島県知事の認可を受け、昭和18年4月に開校。

 本科2年、専攻科1年。国語・数学・歴史をはじめ、華道、裁縫、タイプ等〔女学校と同じ教育〕を指導。
 半日授業を受け、半日乗車勤務。勤務した分は会社から賃金が支払われた。
 応募者は農漁村の子女が多く、中には経済的理由で上の学校に進めない少女たちもいた。

 広島・島根の中山間地の国民学校を中心に生徒募集が行われた。

 

 堀本春野さんは、幼い時に父を病気で母を原爆で失い、柿木村の母の実家に預けた弟と妹の三人で「原爆孤児」としての厳しい生活を送ることになりました。戦争は1945年8月15日に終わりましたが、戦後につらい体験をした人々がたくさんいたのです。

【『広島電鉄開業80創立50年史』表紙】