旧海軍大社基地からは、基地完成後3回の出撃記録が残されています。
 増田善信氏は、太平洋戦争末期に大社基地に配属された気象担当少尉でした。
 太平洋上へ敵索攻撃のため出撃する銀河隊員に対し、該当地域の気象状況・航路を説明する任務に当たっていました。
 その時の思い出を、次のように語っていらっしゃいます。


 1945年8月。数回にわたり、基地から沖縄方面に飛び立つ隊員たちに、黒板に天気図を張って航路と那覇上空の天気予報をレクチャーする役目を担わされた。
 当時、沖縄はすでに米軍の占領下にあり、そこへ向かう任務に命の保証はありません。一番機が離陸し、二番機が離陸するまでに40分くらいかかります。全部の銀河がそろうまで、宍道湖の周りを発光信号を点滅させながら、ずっと旋回していました。
 やがて数が揃うと、夕焼けの中を編隊を組んで南西の空へ向けて飛んでいきました。
 そんな中、「前方に積乱雲あり」と引き返してくる機体もありました。
 飛行隊長に呼び出され、「なけなしの油を使って行くのだから、まともな天気予報を出せ」と叱られたことがありました。
 「積乱雲なんてありっこないのです。」と資料を全部そろえ、飛行隊長に説明しました。
 飛行隊長は、私の説明をさえぎって、
 「ももいいんだよ。」と言われたんです。
 その時、やっと私も気がついたのです。
 帰って来たかった(死にたくない。生きたい。)隊員もいたんだなと。
 あんな説明しなければよかったと、いつまでも後悔しています。
 本当に恥ずかしいことをしました。

 戦時日記には、8月7、8日の出撃だけで、3機の銀河が消息を絶ったと記録が残されています。戦死者は9名でした。

 

旧海軍大社基地関連施設群の総合調査が、今年から数年かけて実施される予定です。

大社基地建設と運用に当たった多方面の人々の体験や思いが詳細に記録され、その成果がこれからの時代を担う人々の学びの糧になる事を切に願っています。

【▼旧海軍大社基地主滑走路面】