大阪文献調査の2日目となる12月19日(火)、この日は終日図書館の「大阪コーナー」に詰めての文献調査を行いました。
 これまで、学校の周年記念誌を中心の確認作業でしたが、各地区で作成された関係資料に目を通しました。
 今日の調査で注目したのは、
『西六のいまむかし』掲載の集団疎開体験者の手記です。
 
西六国民学校は、昭和19年9月、現在の出雲市大社町に集団疎開を実施した学校です。
 当時、西
六国民学校6年生だった高田康子さんが「集団疎開の思い出」として、疎開生活や大阪大空襲の様子について語っています。
 手記内容のポイントは次の通りです。
・もう大阪へは帰れないかも知れないし、二度と家族に会えないかも分からない極限状況におかれた。
・夜になって、大社駅のほうから最終列車の汽笛が「ポ~ッ」と夜空にこだますると、「あの汽車の終点は大阪だ」と思っただけで、涙がどっとあふれてくるのです。
・こんな田舎でも食糧不足で、毎日2切れか3切れのさつまいもかメリケン粉の団子汁ばかり。
・20年ぶりの大雪で、よその家のゴミ箱の木のふたを拝借して、出雲大社の前の坂をソリのようにして滑って遊んだ。
・いよいよ明日は西六国民学校の卒業式、枕元によそゆきの服を並べ、普段着を着たまま床についた。
・夜空を仰ぐとまるで星が踊りながら落ちてくるような焼夷弾が降ってくる。真上が何か暗いのでじっと見ると、米国の星条旗とB29のマークのついた機体が見えた。なんとパイロットまで見えるではないか。
・30年ぶりの昭和50年、旧西六国民学校と堀江国民学校合同の卒業式をしていただき、なつかしい友と再会することができた。

 

 西六国民学校の疎開地での写真資料は入手できていましたが、今回の資料収集で証言も得ることができました。
 「大社版・児童用読み物資料」の作成へつなげていければと思います。

 大きな収穫のあった一日でした。

【▼『西六いまむかし』表紙】