12月18日(月)午後、大阪市立中央図書館での文献調査へ出かけました。
 学童集団疎開実施学校の周年記念誌を中心に、疎開体験者の手記収録の確認作業を行いました。
 なかなか新たな資料を発見するに至りません。
 そんな中で、『戦争を生きのびた子どもたち』学童疎開展実行委員会 1990.9.5刊は、大阪における学童疎開の実態について、体験者の手記で構成されていました。
 その本に収録されている島根県と関係のある次の方の手記は、
①「兄の手紙」繁田京子 喜連校
②「『ボクちゃん』と俺」朝日奈一蔵 江戸堀校
③「学童集団疎開体験記」伊藤文子 桃丘校
④「集団疎開体験の記」中西久乃 桑津校
⑤「大阪市西船場国民学校学童疎開」中野栄 西船場校


 この中で、①の喜連国民学校は、1945年5月に他の学校が再疎開を実施する中で、初めての集団疎開を実施した学校です。

  疎開体験を語った繁田京子さんの証言の中には、
学校の校庭で、母はこれが最後の別れになると泣き、父は柱の蔭で泣いていた姿
・(島根に向かう途中)夜になると空襲警報発令、汽車から降りて土手に身を寄せた
・トラックに荷物のように積まれて山また山とかなり走った。
・毎日の食糧は、あちこちの部落へと負い籠を背負って野菜等、その日の食糧をいただきにいった。

朝体操している時、何とも言えないドドドドッ…という音のする方を見るとあのキノコ雲が立っていたように思う。

 慌てて本堂に入った。あくる日からケガ人等本堂に寝かされていたし、お巡りさんや兵隊さんが来たり、何だかあわただしかった記憶がある。
 

 島根県邑智郡は、広島に原爆が投下された爆音や光、キノコ雲の確認証言が多く残されている地域です。
 今回の喜連国民学校の繁田京子さんの手記から、邑智郡邑南町高原村でも確認されていたことが明らかになりました。

 また、翌日には、原爆でケガを人々が高原村に運び込まれ、お寺も救護所になった様子も記録されていました。

 島根県内における学童集団疎開と広島原爆投下確認証言は、これまでに明治国民学校〔出雲市平田地内〕・西船場国民学校〔出雲市斐川地内〕に続き、3例目になりました。

【▼大阪市中央図書館】

【▼『戦争を生きのびた子どもたち』表紙】