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数学者「平間達也」の偉大な数学とちっぽけな己

数を扱う人間の目にうつる世界や生活の光景から、ちょっとした数の雑学、初めての数との触れ合い方、論理的思考からの未来予想、逆説パラドックスまで数に向き合った者が綴る、数に苦手意識を持つ人達へ送るブログ

数学者平間達也one

 

 

1、始まりの数にして初めての数。

 

全てはここから始まります。

 

 


乗算においては自身を何度かけても自身のままという単位元の唯一性を持ちます。

 

単なる数としては加算の0以外に単位元の性質を持つものはありません(同値類などは除いて)。

 

 


他に類をみない圧倒的な数だと思っています。

 

 


皆さんは1を説明するとき、どのように説明しますか。

 

最小の正の整数、0を自然数に入れないときの最小の自然数、0より大きくて2よりも小さい整数、他にも言い方はあるでしょう。

 

 


ところで、1は素数ですか。

 

 

 

現在では素数ではありませんが、昔は素数の1つと捉えていたこともあったようです。

 

フランスの数学者アンリ・ルベーグが1は素数と公言した最後であると伝わっています。

 

彼は今の大学数学で扱うルベーグ積分の生みの親として知られています。

 

 


何故1は素数ではないのでしょうか。

 

試しに4を素因数分解してみましょう。

 

4=2×2

 

では1を素数と考えたときはどうでしょうか。

 

4=2×2×1=2×2×1×1=2×2×1×1×1=……

 

となり素因数分解の一意性に反してしまいます。

 

このことから素数に1は含めないことになっています。

 

 


ということで1についてその1です。
その2以降はまたその内。

 

 

 

数学者・サイエンストランスミッター

平間達也

数学者平間達也主張

 

 

 

明日の主張は変わっていて当然である。


明日には今日まで知り得ていなかった知識を収得している可能性があるのだから。


そして今日までの主張を恥じる必要はない。

 

自分の知識の枠組みの中で導き出せた論理的結果であるならば。
一番やってはいけないのは、盲目的に信じることだ。

 

天動説のように。

 

 


と、カッコつけて自戒のように書いてみました。

 

要は変化を受け入れて、常に自ら思考しろということです。

 

ただ、数学は余程のことがない限り、一度証明された事実は覆らないんですよねぇ。

 

これが数学が近づきがたいと思われる理由の1つかもしれません。

 

それでもちょっとでも触れ続けていれば、自分を高められるきっかけになるかもしれません。

 

 

 

数学者・サイエンストランスミッター

平間達也

数学者平間達也手

 

 

 

前回の続きです。

 

 


古代の長さの単位の1つ、キュビットについてでした。

 

 


今回は人の体を基準とする他の長さの単位とキュビットの関係について触れていきましょう。

 

 


スパン

 

 


スパンはジャンケンのパーのように手を広げたとき、親指の先から小指の先までの長さです。

 

1キュビット=2スパン
です。

 

 


パーム

 

 


パームは手のひらの幅の長さです。

 

1スパン=3パーム
です。

 

よって、1キュビット=6パーム
となります。

 

 


ディジット

 

 


ディジットは親指以外の指の爪の辺り、つまり先端部分の幅の長さです。

 

1パーム=4ディジット
です。

 

よって、1スパン=12ディジット、1キュビット=24ディジット
となります。

 

 


本当に色々な箇所の長さを単位としていたのですね。

 

どの体を基準とするかは前回お話しした通りその時代の王などですから、現代の政治家などとは比べ物にならない程神聖視されていたことでしょう。

 

 

 

数学者・サイエンストランスミッター

平間達也

数学者平間達也腕

 

 

 

古代の人も位をとって数を表現していたのですが、個数を数えるのはそれで良いとしても、長さなどはどうに表現していたのでしょうか。

 

 


答えは、昔も今と同じように単位を作って表していたのです。

 

 


今回は古代の人が使っていた長さの単位を一つ見ていきましょう。

 

 


キュビット

 

 


これは肘から中指までの長さです。

 

 

 

およそ43~53cmあたりですね。

 

 

 

昔は、地域の人々全員に通じる基準のものを身体的特長でまかなうことが多くあります。

 

 

 

それでも、誤差はありますので、その時代、地域ごとに王や権力者の体を標準としていました。

 

 


使われていた地域としては、

 

 


古代メソポタミア(紀元前6000年頃、この地域で生まれたといわれています)

 

 


古代エジプト(紀元前2750年頃、使用されていると推測されています。単位の象形文字に肘の記録が残っているようです)

 

 


他にも、ペルシャ、古代ローマ、古代ギリシャなどでも使われていました。

 

 


このような古代の単位は現代では使われていないだろうと普通思いますが、なんとユダヤ教では今でも使われているようです。

 

 

 

驚きですね。

次回に続きます。

 

 

 

数学者・サイエンストランスミッター

平間達也

数学者平間達也時間

 

 

 

あなたは、ドラえもんが好きであろうか?

 

 


私は好きでしたよ。いや、今でも好きです。

 

 

 

ドラえもんがカワイイだとかのび太が馬鹿だけど見捨てられないとか、世間的には色々見る要素はあるようですが、一番の魅力はひみつ道具ですよね。

 

 


タケコプターやらどこでもドアやら色々ありますが、中には既に3Dプリンターやスマートフォンのように実現している道具もあります。

 

 


世の中便利になったものだと思いますが、このような道具にあまり興味はわきません。

 

 

 

それは既に一般に普及しているから。

 

 


ドラえもんが楽しいのは現代のオーバーテクノロジーであるひみつ道具を扱うという点です。

 

 

 

もっと厳密にいうと、オーバーテクノロジーであるひみつ道具を個人レベルで使用可能であるというものです。

 

 

 

それにより他者には到底不可能な事象をいとも簡単にやってしまう、この点に集約出来るかもしれません。

 

 


この個人レベルというのが大事です。


それでは、もし社会全体にその新技術を発表してしまったとしたら、どうなるでしょうか。

 

 


例として、タイムマシンで考えましょう。

 

 

 

タイムマシンに関しては世界線やらパラドックスやら色々な説が溢れており、どれが真実かはまだ不明確な部分が多くありますが、タイムマシンが確立した場合いずれにしても不測の事態が起こりえます。

 

 


そもそも個人レベルで開発は不可能なレベルですから国などからの予算が下りて完成させたことでしょう。

 

 


つまり、いずれの機関には報告する必要が出てきます。

 

 

 

また完成以前にも実証実験の段階で世界に影響を及ぼしかねませんので、政府や国家機関も介入し、一大ニュースとなることでしょう。

 

 

 

数々の出来事を段階的にクリアし、法整備も整えてようやく私達が扱えるレベルに到達します。

 

 


まぁまだ富裕層だけが行える金額設定でしょうが、ともかくこれでタイムトラベルが可能となります。

 

 


この時点で可能となる時間旅行とはどのようなものでしょうか。

 

 

 

恐らく様々な物語で語られるようなその時代の人々に介入する行為は禁止されることでしょう。

 

 

 

しかし、個人で旅行されると介入行為を止める術がないので、国家公認レベルの添乗員がつくはずです。

 

 


それもバス旅行の添乗員レベルでなく、とある国家の監視員レベルのものです。

 

 

 

この頃には高度なAIも発達していると思いますので、AIロボが監視につく可能性もあります。

 

 


このような状況の下、ただひっそりとその時代を眺めるだけの時間旅行となることでしょう。

 

 


過去や未来の自分とは接点を持ってはいけないという法も出来る可能性もありますね。

 

 


とにかく、あまりにも制限のかけられたものになることは想像に難くありません。

 

 


以上、もしタイムマシンが実際にこの世に誕生したら、を簡単に解説しました。

 

 


ツッコミどころは沢山あるでしょうが、少なくともドラえもんや他の物語で語られるような夢いっぱいのファンタジーになる可能性は低いでしょう。

 

 


あーあ、自分で考えてウンザリしてしまった。
皆さん、現実をしっかり生きていきましょう、トホホ。
 

 

 

数学者・サイエンストランスミッター

平間達也

数学者平間達也素数

 

 

 

素数の定義は何だっけ、と思い出そうとしたことはありませんか。

 

 


確か、「1と自分自身でしか割り切れない数」と記憶している人も多いかもしれません。

 



では、1は素数ですか?

 

 


上の定義であれば、自分自身は1のことなのだから素数だろ、と思ってしまいます。

 

 


学校で習った重要な事として覚えているという人も多いでしょうが、上の説明は正しくなく、実は一番大事なところがぬけています。

 

 


重要なところは結構ひっそりと大人しくしているものです。

 



素数の正しい定義は次の通りです。

 



「1よりも大きい自然数で、正の約数が1と自分自身のみである数」

 

 


ついつい、上の部分を軽視してそのまま忘れ去ってしまい、間違ってしまう人が多いです。

 



それならば、この定義を言い換えて覚えればよいでしょう。

 

 


次の通りです。

 

 


「正の約数が2個のみの数」

 

 


これだ。何が何でも2個なのだ。

 

 


これなら、1の正の約数は絶対に2個ではないのだから間違えないですみます。

 

 


さらに、先にこちらの定義の言い換えを覚えておけば、本来の定義を正しく言える足がかりにもなります。

 

 


以上をふまえれば、自然数全体は素数と合成数全体ではなく、「1と素数と合成数全体(0を含める場合もある)」といえます。

 

 

 

ということで、どんな時でも事実は正確に覚えておこうという話でした。

 

 

 

数学者・サイエンストランスミッター

平間達也

数学者平間達也デジタル

 

 

 

前回、位、桁の話が出て、二進法などの言葉も出てきたので、少し触れようと思います。

 

 


厳密な定義などは検索すれば直ぐに得られると思うので、イメージで説明します。

 

 


二進法では0、1しか使いません。
つまり0、1と数えて次の2はどうするかというと位がくり上がって10と表記するのです。
なので3は11、4はくり上がって更にくり上がって100と表記するのです。

 

 

 

またこれは有名な話ですが、0か1かの二つに一つの組み合わせでパソコンなどの電子機器は動いてるという話は1度は聞いた事があるかと思います。

 

 


では具体的にいつも私達が慣れ親しんでいる十進法の数を二進法に変換するにはどうしたらいいでしょうか。

 

 


まず十進法とは何なのかをわかりやすくするために分解してみましょう。

 

例として576は


576=100×5+10×7+1×6

と分解出来ます。

 

つまり576は100の位の個数が5こ、10の位の個数が7こ、1の位の個数が6ことみることが出来ますね。

 

 


では、同様に二進法での位の分解をしてみましょう。

 

二進法の位は小さい方から1の位(2の0乗の位)、2の位、2の2乗の位(4のこと)、2の3乗の位=(8のこと)、……と続きます。

 

これをふまえてやってみましょう。

 

三桁は多すぎるので二桁の数で試してみいきます。

例として十進法での75を二進法に変換すると

 

75=64×1+32×0+16×0+8×1+4×0+2×1+1×1

 

これより二進法では1001011となります。

 

 


今回の二進法の場合では、2の6乗が64などは直ぐに求められたり、与えられた数に対し64が小さければそれから64を引いてなど、まだ手順がシンプルになりますが、二進法以外ですと途端に複雑になります。

 

 


三進法や五進法とかはまだいけそうですね。

 

では16進法は直ぐに出来ますか。

 

 


そこで、分かりやすい方法としては与えられた数をN進法のNで割っていく方法があります。

 

 


先程の例の75で試してみると

75÷2=37余り1
37÷2=18余り1
18÷2=9余り0
9÷2=4余り1
4÷2=2余り0
2÷2=1余り0
1÷2=0余り1

最後の式は便宜上です。

 

この計算をして下の行から余りに注目してみると、先程の二進法の表記と同じ1001011が表れるのです。

 

 


色々な数を様々なN進法で表して表記して遊ぶのもいい暇つぶしになるかと思います。

 

 

 

すると、自分が今は何進法で考えているのかが不明瞭になる事態に陥ることもあるでしょう。

 

 

 

現実世界で自分はどのような立場で発言しているのか、見つめ直せるいい機会になったりならなかったり。

 

 

 

数学者・サイエンストランスミッター

平間達也

数学者平間達也原始人3

 

 

 

物を数える数の概念は世界共通のものであるという話を前回しました。

 

 


ですがいつまでも、その地域ごとに発音も表記も違うとなると色々と面倒くさく厄介なことも起きたことでしょう。

 

 


文明として遺跡や文献などが残るよりもずっと昔の時代に、文化の統廃合、土地の争い、権力の行使などによって淘汰されてきたのだと考えられます。

 

 


数を数えられるというのは、非常に優れた道具です。
10までしか数えられない文明と20まで数えられる文明ではどちらが優れているでしょうか。

 

 


圧倒的に後者ですね。

 

 


実際に戦争した場合、どちらの文明が勝つかはわかりませんが、少なくとも10までしか数えられない文明が勝ったとしても、20まで数えられる知識を吸収し、さらに発展していくことでしょう。

 

 


このように長い年月をかけて、人類は数を自分達のものとして文明を発展、数学を発展させてきたのでしょうね。

 

 

 

数学者・サイエンストランスミッター

平間達也

数学者平間達也原始人2

 

 

 

前回、他者とのコミュニケーションにおいて必要であったから数の概念が生まれたという話をしました。

 

 


では誰が、その数の概念を生んだのかという疑問も生まれてくるでしょうが、とても昔のことですし記録にも残っていることは非常に可能性が低い。

 

 


また、運良く壁画などに記録として残っていても、それが最初と決める根拠にはなり得ません。

 

 


あまり意味のない疑問かと僕は考えています。

 

 

ですが、古代人がどの程度の数学を扱っていたのかを知る重要な証拠にはなります。

 


それに、スマホで直ぐに情報を共有出来る現代とは違い、地域ごとに点在している集落がそこに住んでいる人間の世界のほぼ全てと言っていい昔では世界的規模での知識の共有は困難でしょう。

 

 

ちなみに今考えている古代は四大文明が始まるよりももっと前。

集落単位で生活している頃の話です。

 

 

四大文明の頃には文明間の交流もあったのでどんどん数学も発展、広まっていきました。

 


話を戻して、文明が明ける前の集落単位の頃は、ある場所では数の概念が存在しているけど、別の場所では100年後、1000年後に生まれたということもあるかと思われます。

 

 


私は自然発生的に色々な場所で数の概念が発見されたと考えています。

 

 


ここで、

 

 


数の概念という勿体ぶった言い方をしていることに疑問を持った方もいるでしょう。

 

 


簡単に言ってしまえば、共通の表記、発音ではないが「1」という認識、「2」という認識は共通であるということです。

 

 


日本語の「いち、に、さん」と英語の「one, two, three」は表記も発音も違いますが、認識しているものは「1, 2, 3」で共通ですよね。

 

 


だから地球上のどこかの少数民族が訳のわからない発音で数を表現していたとしても、例えば次のようなでたらめな

 

 


ハー、デー、ソー、ボイ、ラニ、モー、

 

 


と発音していたとしても物を数える数の概念において、「いち」イコール「ハー」なのだとお互いが認識出来るのです。

 

 


何を当たり前なと思うかもしれませんが、日本語の「もったいない」が他の言語圏で表す言葉が見つからない事実などと比べてみると、非常に素晴らしい概念といえるのではないでしょうか。

 

 

 

数学者・サイエンストランスミッター

平間達也

数学者平間達也原始人1

 

 

 

ということで、大仰な初投稿をした私のブログですが、先ずは何から話していきましょうか。

 

 


そうですね。先ずは数がどのように発生したのか、もしくはどのように初めて接したのか、もっとかっこつけて言うとしたら数とのファーストコンタクトについて考えていきましょう。

 

 


ここから先は思考実験です。
文献など残ってはいませんからね。

 

ですが、洞窟壁画などは現在においても時折発見されており、古代の人々も現代人と同じように数字、数学に触れていた証拠は発見されています。

これからもそれは続いていくでしょう。


文明が起こるよりもずっと昔をイメージしましょうか。原始人くらいの時代です。
あなたは自分だけで日々生き抜いているとしましょう。
一人ではこの時代厳しいかもしれませんし、親から生まれたんだから一人のはずがないとか深く考えずに。
ただ一人でと仮定してみましょう。

 

 


生きていくためには食糧の確保が最重要となります。
だけど米などの栽培ははるか先の話です。
大体は狩猟と採集でまかなっていたことでしょう。
あの生き物を狩ろう、この木の実は食べられそうだ、貝が拾えるぞ。
今日食べて寝て、明日も同じように生きていく。

 

 

 

ここに数の概念は必要でしょうか?

 

 

 

自分だけの食糧を確保し、時には溜めておくこともするでしょうが、これくらいとっておこう、これだけ食べよう程度でしょう。
明るくなったら動き、暗くなったら火を起こし寝る。
ここには数の概念が必要な状況が生まれにくいのです。

 

 


では他者がいた時、つまり集団生活をしていたとしたらどうでしょう。

 

 


必要な場面がチラホラと思い浮かんでくるでしょうか?

 

 


例えば狩りの場面では、自分と相手の家族分の小動物を手に入れなくてはならない時にこれくらい、などという曖昧な量ではなく、何匹狩ろうかという話し合いが生まれてくるでしょう。
木の実や貝も同様です。

 

 


また人間や住居、道具となる石などを数える際にも数が必要になってくることでしょう。

 

 


つまり、数は他者とのコミュニケーションにおいて必要であったから生まれた(または日の目を見た)と言えるのではないでしょうか。

 

 

ここでもう一度一人であったとした時を考えてみましょう。

 

つい先ほど一人では数の発想は生まれにくいといいましたが、明日の自分に伝える内容があったとしたらどうでしょうか。

 

例えば残りの木の実の個数などです。

つまり一人の時でも、今の自分と後の時間の自分を区別することにより、自分とのコミュニケーション、対話という形で生まれた可能性もありますね。

 

 

 

どちらにしても、数も言葉と同様に誰かに伝えるために生まれたと個人的に考えています。

 

 

 

数学者・サイエンストランスミッター

平間達也