数学者が考える「数は今も昔も共通の概念」平間達也 | 数学者「平間達也」の偉大な数学とちっぽけな己

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数を扱う人間の目にうつる世界や生活の光景から、ちょっとした数の雑学、初めての数との触れ合い方、論理的思考からの未来予想、逆説パラドックスまで数に向き合った者が綴る、数に苦手意識を持つ人達へ送るブログ

数学者平間達也原始人2

 

 

 

前回、他者とのコミュニケーションにおいて必要であったから数の概念が生まれたという話をしました。

 

 


では誰が、その数の概念を生んだのかという疑問も生まれてくるでしょうが、とても昔のことですし記録にも残っていることは非常に可能性が低い。

 

 


また、運良く壁画などに記録として残っていても、それが最初と決める根拠にはなり得ません。

 

 


あまり意味のない疑問かと僕は考えています。

 

 

ですが、古代人がどの程度の数学を扱っていたのかを知る重要な証拠にはなります。

 


それに、スマホで直ぐに情報を共有出来る現代とは違い、地域ごとに点在している集落がそこに住んでいる人間の世界のほぼ全てと言っていい昔では世界的規模での知識の共有は困難でしょう。

 

 

ちなみに今考えている古代は四大文明が始まるよりももっと前。

集落単位で生活している頃の話です。

 

 

四大文明の頃には文明間の交流もあったのでどんどん数学も発展、広まっていきました。

 


話を戻して、文明が明ける前の集落単位の頃は、ある場所では数の概念が存在しているけど、別の場所では100年後、1000年後に生まれたということもあるかと思われます。

 

 


私は自然発生的に色々な場所で数の概念が発見されたと考えています。

 

 


ここで、

 

 


数の概念という勿体ぶった言い方をしていることに疑問を持った方もいるでしょう。

 

 


簡単に言ってしまえば、共通の表記、発音ではないが「1」という認識、「2」という認識は共通であるということです。

 

 


日本語の「いち、に、さん」と英語の「one, two, three」は表記も発音も違いますが、認識しているものは「1, 2, 3」で共通ですよね。

 

 


だから地球上のどこかの少数民族が訳のわからない発音で数を表現していたとしても、例えば次のようなでたらめな

 

 


ハー、デー、ソー、ボイ、ラニ、モー、

 

 


と発音していたとしても物を数える数の概念において、「いち」イコール「ハー」なのだとお互いが認識出来るのです。

 

 


何を当たり前なと思うかもしれませんが、日本語の「もったいない」が他の言語圏で表す言葉が見つからない事実などと比べてみると、非常に素晴らしい概念といえるのではないでしょうか。

 

 

 

数学者・サイエンストランスミッター

平間達也