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数学者「平間達也」の偉大な数学とちっぽけな己

数を扱う人間の目にうつる世界や生活の光景から、ちょっとした数の雑学、初めての数との触れ合い方、論理的思考からの未来予想、逆説パラドックスまで数に向き合った者が綴る、数に苦手意識を持つ人達へ送るブログ

来週は、図形の「円」とは何かを書く予定です。

改めて言われると、何?って思う人もいるのでは?

もう一度、円を見つめ直す時間を持ってみよう。

数学者平間達也電球

 

 

 


計算式には意味がある。

4+1=5にもこの記号の羅列以上に、4に1を足したら5になる、あるいは5は4と1を合わせた数、といった意味を持っている。

これはあまりに極端に簡単な例であるため、大半の方が当たり前だと感じることだろう。

文章から式を作ることも式からその意味を理解することも出来るはずだ。

しかし、これで買い物などの文章問題を出すと、途端に分からなくなり式を立てられなくなる人が少ないながら一定数出て来てしまうのだ。

大人でも四則演算のかけ算割り算は足し算引き算よりも先に計算するという常識がない、抜けている人も少数ながらいる。

そのような事が壁として存在してしまう人は、解答者でなく出題者として計算式から文章問題を作る練習をすると少し改善されるかもしれない。

例えば、70+80×4=390。

これを文章題にしてみよう。

一例として、テストで国語を70点、その他4教科を80点取った。合計は何点か?

答えは390点。

これなら、きちんと式を理解しているといえるだろう。

しかし、同じ式で次のように理解してしまったら?

1個70円のオレンジと1個80円のリンゴをそれぞれ4個買った。

合計はいくらか?

答えは390円。

いや違う。

これでは600円となる。

これは、70+80×4を(70+80)×4と認識してしまったことによる間違いだ。

全体を見ずになんでもいいから前から計算してしまった間違いともいえる。

このような訓練をしていけば次第に式の意味を理解していく事が出来るようになるだろう。

時として、数学に限らず解答者の視点だけでなく出題者の視点も持つことで理解を深める助けとなるはずだ。


 

数学者・サイエンストランスミッター
平間達也

 

数学者平間達也ローマ

 

 

 


昨今、カイジやLIAR GAMEのような奇抜なゲームを通しての物語や、果ては負ければ即死に繋がるデスゲーム系の物語に至るまで、ゲームによって多くの死や社会的死を描くストーリーが人気を博している。

正直、最初は私も面白く拝見していたが、ここまで乱立してくるといかんせん食傷気味である。

まぁ、このような物語は所詮フィクション、現実には起こらないよ、と娯楽としてハラハラしながら見ている方が大半だと思うが、実は現実にもこのようなデスゲームは存在していたかもしれない。

明確に言いきれないのが申し訳ないが、2000年程度昔の事だからもしかしたら逸話かもしれない可能性があるので仕方がない。

その名も「ヨセフスの問題」。

『ユダヤ戦記』に記されているこの問題は、ユダヤ戦争時にある町に籠城したユダヤ軍人達40人が負けを認めて自決しようと話し合いで決まったことから始まる。

その中で、この軍人達の司令官ヨセフスは、なんとか生き残りたいと渇望していた。

皆が殺されるか自殺するかという思考停止に陥った時、彼は思考を停めなかったのだ。

ここで、普通の物語なら奇策を思いつき、ヨセフス含めたった41人でローマ軍を撤退させ、ヨタパタの奇跡(ヨタパタは町の名前)等と英雄譚として語り継がれるとなるはずだが、これはそんなお話とはならない。

どうやったら集団自決の中、自分だけ生き残れるかを考えたのだ。

おい、お前司令官じゃねえのかよ、と総ツッコミを入れる場面である。

かくして彼は、協力者として友人の一人と一計を講じる。

その方法は、まず全員で円を作る。

次に起点となる人を決めて、その人から3番目に位置する人を他の人で殺していく。

また、その人から3番目に位置する人を他の人で殺していく。

これを繰り返して最後の人は自殺するというもの。

見事にヨセフスとその友人は16番目と31番目に位置して生き残ったという結末だ。

誰しもが思うであろうが、他の人達はこの提案を何か裏があるんじゃない?と気づかなかったのかということだ。

私個人の意見では、気づかなかったのだろう、と思う。

だって自殺って結構大変よ。

自分で自分を刺せる?

無理でしょ。

でも誰かに刺されるなら、イヤだイヤだと言ったところでおもいっきり他人だから刺してくるからねぇ。

やっぱり止めて、というようなことはないわけだ。

一番覚悟を決めなくてはならない自殺をする人はたった一人で済む、という窮地に陥れば納得してしまうアイデアだったのだろう。

よって「ヨセフスの問題」は、全n人でk人ごとに殺していくとき、どこを起点にすると特定の人を殺さずに済むかという問題となる。

キリスト教徒と異教徒トルコ人の船の難破の話にもこれと同種の問題が描かれている。

キリスト教徒はこの方法で切り抜け全員生き残ったようだ。

トルコ人憐れ!

今だったら、何十人かの団体に景品数個をどうに渡すかといった時に、これを使うと盛り上がるかもしれない。

その時は、起点と何人おきに排除するかを決める人は別々で、しかも事前に紙に書いてからでないと不正が出てしまうからご用心を。


 

数学者・サイエンストランスミッター
平間達也

 

 

数学者平間達也人々

 



今まで完全数に関する数を紹介し続けてきたが、社交数だけまだ紹介していなかったので、今回は社交数に触れていこうと思う。

以前、友愛数は自分自身を除いた約数の和が他方の数になる2つの数の組と紹介した。

今回の社交数は友愛数の発展的な数のことだ。

つまり、友愛数は2つの数の組だったが、社交数は3つ以上の数の組ということ。

より丁寧に説明するならば、ある数Aの自分自身を除いた約数の和が他の数Bとなり、今度はBの自分自身を除いた約数の和がまた別の数Cとなり、Cの自分自身を除いた約数の和が……、と続いていき最後に、また約数の和をとったらAに戻ってくるような数の組のことだ。

ということで、まずは例を見ていこう。

3つ以上の組ということだから、まずは3個組を見ていきたいところだが、なんとこの組は見つかっていないのだ。

しかも存在するかどうかもあやふやである。

存在しないことも証明されていない未解決問題の一つなのだ。

なので、4個組を見てみよう。

(1264460,1547860,1727636,1305184)

これが社交数の一例だ。

確認は各々で行ってもらいたい。

現在発見されている社交数は171組で、その内4個組が161組と大部分を占めている。

残りの内訳は、6個組が5つ、8個組が2つ、5個組と9個組と28個組がそれぞれ1つだ。

社交数を構成する数の内で最小の数を含む組は5個組のもので、以下の通りだ。

(12496, 14288, 15472, 14536, 14264)

確認は先程と同じく各々で行ってもらいたい。

後は、気になるのは現在の最長の長さの組の28個組がどんなものかということだろう。

それは以下の通りだ。

(14316, 19116, 31704, 47616, 83328, 177792, 295488, 629072, 589786, 294896, 358336, 418904, 366556, 274924, 275444, 243760, 376736, 381028, 285778, 152990, 122410, 97946, 48976, 45946, 22976, 22744, 19916, 17716)

実に確認が面倒だが、発見するのも実に面倒だったことだろう。

手計算だったらの話だが。

尚、3個組と同じく7個組と10個組の社交数は見つかっていない。

これも未解決問題だ。

探してみてはいかがだろうか。

だからといって、先程の5個組のものに友愛数をくっつけて7個組とはいわないように。

あくまできちんと7個で1ループするものを探さないといけない。

 

数学者・サイエンストランスミッター
平間達也

数学者平間達也授業風景

 

 

 

突然だが、以下の二つのどちらがいいだろうか。

「オツムは弱いけど体が成長したから試験受けて、頭良い学校から頭悪い学校まで幅広くあるんで行けるとこ行ってね」

「オツムがまだ弱いから体は成長したけど、もう少しオツムが良くなるまで時間をかけよう。よし、これなら最低限大丈夫だろう。色んな分野の学校あるよ。試験はあるけど、君の行きたい進路を選んでいいよ」

さあ、どちらがいいだろうか。

私個人としては、圧倒的に後者がいいと考えている。

前者は日本、後者は諸外国である。

上の表現は、結構な語弊のある書き方かもしれないが。

つまり、義務教育に留年を取り入れる。

教育の成績の二極化と教師への責任の比重過多を解消するには、簡単明瞭な方法ではないか。

道徳の成績付けなどというブーイングが叫ばれる制度を行えるのだから、もう留年に踏み切ってもいいはずだ。

もし我が子を留年させたくなければ、教師に責任転嫁する頭のネジの外れた親も少しは子供の教育に向き合ういいきっかけになるであろう。

しかし、この問題には経済格差の問題も根底にあるのであまり強気な発言は出来ない恐れもある。

だが、諸外国に足並みを合わせたがる我が国はいつかこの制度を取り入れると突然言い出す可能性は大いにあるだろう。

その時に、冷や汗をかかないために我が子の教育にはキチンと向き合っていてほしいと私は考える。


 

数学者・サイエンストランスミッター
平間達也

数学者平間達也勉強

 

 

 

 

 

 

 


勉強って大人になってから役に立たない、っていう人が一定数いる。

それとは別に学校を休んで旅行に行くのは駄目だという人が6割近くいる。

言い分は、直ぐに学校の勉強は進むから1日休めば追い付けなくなる、責任感のない子になる、様々だ。

役に立たない、休むのはダメという考えの人はベン図にすればわかりやすいだろうが、確実に一定数いるわけだ。

その人達に言いたい。

休ませたって別にいいじゃん、役に立たないんだろ?

それに、高校の授業は選択制もあるから別として小中学校の義務教育だったら大人は誰もが通ってきた道だ。

若干の現代との差異はあっても、教科書を子どもと一緒に読めば先生の質まではいかずとも最低限教えられるだろ。

つまりはそれが出来ない親が大多数ということだ。

親が出来ないことを子どもに押し付けてはいけない。

まずは親から復習を。

学校に頼らずとも子どもを教育出来る家庭にすることが自由度の高い生活が出来る第一歩だろう。


 

数学者・サイエンストランスミッター
平間達也

 

 

 

 

数学者平間達也スキンヘッド

 

 

 

あなたの頭に髪の毛は生えていますか?

では何本生えていますか?

誰しも答えられないだろう。

それでは質問を変えて、あなたはハゲていますか?

ハゲてない?

そんな馬鹿な、ウソを言ってはいけない。

あなたははげているはずだ。

その証拠に私もハゲているし、もっと言えば全人類はハゲている。

え、かつらなのかって?

そんなことはない、全て地毛ですよ。

でもハゲている。

何を言ってるのかって?

だって、一本も毛が生えてない人はハゲですよね。

じゃあ一本だけ生えてる人は、そう、その人もハゲでしょう。

さらに一本足しても、ハゲですよね。

では帰納法を使えば全ての人はハゲになるでしょ。

これは有名なハゲのパラドックスです。

では、何故こんなパラドックスが生まれたか。

ハゲの定義が曖昧だから。

何本以上がハゲてない。

それ以下がハゲている、という明確な基準、定義をしていないから、というのが簡単な理由です。

でも、ハゲの定義をk本以上以下で線引きしたらどうなるか。

k本の人とk-1本の人で戦争が起きる可能性が。

それに毛穴の量が一部だけ異常に多くて頭頂部などが極端に少ない人もいるだろう。

それでもk本以上あればその人はハゲてないといえるか。

だからハゲの人の定義は本数だけでは不足だということだ。

一つの提案として、任意の部分に対して生きている毛穴、毛根の数がその部分の面積に応じて一定以上の数があればその人はハゲてない、という定義をしてはどうだろうか。

一部でも下回れば、その人はハゲている、といっていいだろう。

しかし目に見えて単純に判定出来る定義ではないか。

やはり、だからこそ人はハゲとこれからも戦い続けていくのだろう。

 

 

 

数学者・サイエンストランスミッター

平間達也

数学者平間達也料理

 

 

 

 

 


ベクトルは一本あれば、その一本をスカラー倍すれば直線を一本表現出来るようなものだ。

この時、そのベクトルを基底ベクトルということもある。

まぁ基底ベクトルというのはn次元空間があったときにn個の線形独立なベクトルの組をいうわけだが。

xy平面で(1, 0)をベクトルとしてとったとき、そのスカラー倍で表される全体はx軸となり、もう一本(n, 0)以外で表されるベクトルと組ませれば、それはxy平面の基底ベクトルの一つとなり、この二本でxy平面全てを表現出来るようになる。

これは線形代数の基本で適当に説明をしただけで、説明に抜けがある場合があるかもだがそれは各々で調べて補完してもらいたい。

今回はそんな説明をつらつら述べるためでなく、料理の切るや焼くなどの方法はベクトルと通じる部分があるという私見を持ったからだ。

だが完全に一致するわけではない。

適当に聞き流して欲しい。

たとえばリンゴ。

何も手を加えないままであれば、それは原点にいるままリンゴそのもののままである。

切るという方法、つまりベクトル「切る」を加えることによりカットフルーツとなる。

さらに焼けば焼きリンゴ、煮ればりんごジャムなどリンゴが様々な変化をする。

砂糖などの調味料を加えることなどもベクトルとして捉えられるだろう。

一つ一つの調理方法がn次元のリンゴ空間を形作るのだ。

しかし、そのリンゴ空間の中で食べられるものはわずかしかないだろう。

焼くというベクトルをし過ぎればただの消し炭になるし、煮ることについても同様だ。

だから料理という行動は膨大な空間からある一点を見つける宝探しのようなものとも捉えられるかもしれない。
あるいはゴルフのようなものか。

と、簡単な例を出して二つの類似点を述べてみた。

次は相違点を言うと、ベクトルはベクトルの和を交換しても変化しない。

ベクトルaとベクトルbの和はベクトルbとベクトルaの和は等しいということだ。

しかし、料理はそうとは限らない。

料理の手順を逆にしても同じものが出来上がる保証はまずない。

大方別物の料理が出来てしまうだろう。



今日はなんとなくふと心に浮かんだことを書いてみた。

これを通じて特に伝えたいものがあるわけではない。

一つ言えるのは、少なくとも料理は科学だ、ということだけだろうか。

 

 

数学者・サイエンストランスミッター

平間達也

 

 

 

数学者平間達也授業風景

 

 

 

かけ算の九九。

大体において小学三年ぐらいに触れるこの表は、ほとんどの人が乗り越えていく壁ながら、時折屈する者もいたりする。

こんなものは暗記するだけの代物だと考えている人が多い。

呪文のように、「しちいちがしち、しちにじゅうし、しちさんにじゅういち…」と繰り返し詠唱していれば、確かに暗記だけのもののように思えてしまう。

しかし、九九の表を使って後々触れることになるであろう交換法則、分配法則などの一端に触れておけば、全てのかけ算にその法則は当てはまるイメージを持てるようになり、桁数の多い計算においても怯むことは少なくなるであろう。

一番目に見えてわかりやすい交換法則とは、かける数とかけられる数を入れ換えても解は変わらない法則のことだ。

いわゆる4×5でも5×4でも答えは20というものであるが、表を見れば対角線を軸に対称になっていることから多くの人が気付きやすい法則だ。

分配法則は、文章で説明するのもいいが、次を見てもらった方が理解がはやいだろう。

(x+y)×z=x×z+y×z

これは例えば5の段は3の段と2の段の和に等しい、もしくは4の段と1の段の和に等しいということだ。

つまりは3×7と2×7の和は5×7ということだ。

また、四角数とも関係が深い。

多角数の一つである四角数は平方数とも言われ、表の一部にそれは見てとれるだろう。

性質として一つあげるならば、9と16はそれぞれ3の平方と4の平方だが、その3の平方に3を2つと1を1つ足せば16になる。

これは隣り合った四角数の全てにこの関係は当てはまる。

まぁ当たり前なことだ。

言ってることは単純で、x2と(x+1)2の関係を言ってるに過ぎない。

つまりは、(x+1)2=x2+x+x+1なのだから。

これらのことは九九の表を渡されたら眺め続けていれば自分一人で気付くことの出来るものだ。

つまりは誰に教えてもらわずとも自学自習で到達出来るもの。

であるならば、テストでまだ教えていない方法で解いたからバツ、減点は甚だおかしいものだ。

そのような教師は九九の表をただの呪文を唱える道具としか見ていないのではないか。

ならばこちらも呪文で対抗するしかないだろう。

なに、テストの解答用紙の一番上のあたりにでも書いておけばいい。

「全テノ整数ノ乗法ニハ交換法則、分配法則、結合法則ガ成立スル」

とね。


 

 

数学者・サイエンストランスミッター
平間達也

 

 

 

数学者平間達也数字

 

 

自然数を全て記述しなさい。

こう問われて面食らったり途方にくれたりするあなたは正しい。

そう、自然数は無限にどこまでも存在するのだ。

ペアノにより定義されたペアノの公理によりこの事は納得出来るであろう。

では整数と自然数はどちらが個数が多いですか。

こう問われてあなたは明確に答えられるか。

もちろん整数だろう。

いや待て、どちらも無限個あるんだから、えーと。

やっぱり整数は自然数の二倍ないとおかしい。

無限の二倍は…無限?

色々な考えが頭をよぎることだろう。

答えは簡単。

等しいのだ。

そんな馬鹿なことはないだろうと言いたい人は一定数いるとは思う。

だが、そのような苦情はカントールに言って欲しい。

カントール、本名ゲオルク・フェルディナント・ルートヴィッヒ・フィリップ・カントールが無限にもいくつか種類があることを発見した。

簡単にいえばその無限集合は可算か非可算かということだ。

つまりは集合の元に番号を1から割り振ることが出来るかどうかということだ。

自然数はそのまま、1を1番、2を2番としていけばよい。

整数はどうするかというと、0を1番、1を2番、-1を3番、2を4番、-2を5番、というように割り振っていけばよい。

この事から自然数と整数は個数が等しいと考えられることがわかるだろう。

この無限集合の個数のことを数学では濃度という。

そして今回触れた自然数の濃度のことを\aleph_{0}アレフ・ゼロという。

番号を割り振ることが出来れば自然数と濃度が等しいので、普通に考えれば絶対に自然数よりも個数が多いと思ってしまうような、自然数×自然数、{1, 2}で表す二次元の自然数の組も自然数と同じ濃度なのである。

どうに番号を割り振るのかは考えて見て欲しい。

この自然数と整数の濃度の疑問でつまづくのは、一方向に無限か二方向に無限かというところだろう。

常人はそのままあーでもないこーでもないと考えるだけだが、カントールは違った。

番号を振るというアイデアにより二方向に続く無限を一方向のみに組み替えたのである。

これは、続いて番号が割り振れない無限集合もありそれは実数であるという事実へとむかうことになるのだが、今回は触れない。

単純だが、しかし思いつけないこのアイデア。

現代社会にも数多く転がっている難題を解決するのは、思いがけない単純なアイデアなのかもしれない。


 

数学者・サイエンストランスミッター
平間達也