ぴあのまん -36ページ目

ぴあのまん

とあるぴあのまんの日々の奮闘記です。

3月13日 3:00

ようやく給油できた。Kは俺の2台前に並んでいた。給油後に一言声をかけた。かなり疲れきっている様子だった。俺の目線から言うとまだまだと言ったとこだがKは元々線の細い奴だった。入社してから4年でだいぶ鍛えたがそれでも時折へたれになる事がある。通常なら一言喝を入れるだけだがこの状況ではそれも止めておいた方がいいだろう。「しっかりな」一言だけ言った。

俺はこのまま本日のお客さんの所へ向かう。この日は岩手県花巻市。仙台市の中心部を通過すると中心部は電気が復旧していた。携帯も繋がる状態だった。国道4号線をひたすら北上する。大崎市、登米市、栗原市を超えると岩手県だ。それでも花巻はだいぶ北で盛岡の手前に位置する。道がとにかくひどい。30㎝くらい盛り上がっているところや地割れがあちこち。更に橋梁部はどんな小さい橋でも付け根の部分に必ず段差ができていた。そんな状態なのでいつものようにスピードを出せない。徐々に東の空が明るくなってきた。また変わらない朝が来る。明るくなることで比較的に路面の状態が把握しやすくなる。岩手に入り後30分位で到着するころに、国道沿いの大手牛丼チェーン店が開いていた。どこも店は閉めている中で唯一開いていたのだ。俺は迷いなく入った。朝の5時なのに人が大勢いる。並ぶ程ではなかったが席につき朝の定食をオーダーした。俺はこの日、ここで食べた食事を一生忘れる事はないだろう。とびきり美味かったわけではないが、温かいご飯と味噌汁が疲れ切った体を癒してくれた。温かい食事は何日ぶりだっただろう。そんな事も考えず夢中で食べた。Kの分をテイクアウトしようと考えたが1日車に放置する事になるので止め、帰りに買うことにした。6時頃にお客さんの家の近くの道の駅に車を止め仮眠をとる事にした。そんな時、急に便意をもよおした。まったくろくに食べてもいないのに出る物はしっかり出るではないか。トイレに駆け込むが水が出ないためにひどい有様だった。しかしそんな事は言ってられない。さっさと済ませ出てくると高校生くらいの男の子が順番を待っていた。俺が汲み置きしてある水を流そうとするが彼は「後はやっておきます」とだけ言い残し入っていった。よっぽど切羽詰まっていたのだろう。「ごめんね」とだけ言い車に戻った。シートを倒し横になるとすぐに意識がなくなった。

9時頃になって目を覚ました。たった数時間でもだいぶすっきりした。寝ている間にKからの着信があったがかけ直しても繋がらなかった。俺はお客さんの所へ向かった。お客さんは驚いた様子だったが快く招き入れてくれた。電気が止まっていて掃除機が使えなかったので調律だけ行った。発表会が近いそうだ。仕事が終わるとお客さんはお茶を入れようとしていた。俺は頑なに断った。水道が止まっている中で水は貴重だ。そんな時に電気が復旧した。お客さんはテレビを付け、爆発した原発の様子を見て驚いていた。仕事を終えた俺は次へ向かう。この日は夕方に宮城でもう1件の予定。時間があるので朝に立ち寄った牛丼屋で持ち帰りをしようとしたが昼頃にはもう閉店していた。こんな事なら朝に買っておくべきだった。Kに心な中で詫びた。連絡は相変わらずとれない。

夕方のお客さんのところも何事もなく仕事ができた。しかし街がひどい状態だった。道はでこぼこでマンホールが飛び出している。家も崩れていたり倒壊しているところも。道には瓦礫やガラスが散乱していた。新幹線の高架橋は無事だったが架線の電柱が全て折れ曲がっている。仕事が終わった後に走っていると半年程前に来たお客さんの家が近い事に気付いた。特に意味はなかったがすごく良くしてもらった方だったのでよく覚えていた。おもむろに立ち寄るとお客さんは驚いていた。ピアノが倒れたそうだ。ご家族で戻したとの事だったのでそのまま立ち去った。

仙台市についたのは19時頃だった。仙台駅付近で車を止め携帯が繋がるので、会社へ報告を入れた。Kからの連絡はなく代わりに災害用の伝言板にメッセージが入っていた。この伝言板が非常に役立った。Kは仕事に行けず、給油に並ぶとの事だった。山形でコンビニが開いていて食料をたくさん購入したそうだ。俺もガソリンを求めて昨日まで開いていたGSへ。しかし俺がつくころには品切れで閉店していた。その近くの店が開いているとの事でそこに向かい、列に並んだ。しかし30分もしないうちに店員が現れ、品切れになったと伝えてきた。俺はこの日の給油をあきらめ、自宅へ戻った。しばらくしてKも帰ってきた。どこも品切れで次々と閉店しているらしい。俺もkも真っ暗なアパートで足止めになる覚悟をした。kは特に憔悴していて不満や愚痴をこぼす。それを耳にする俺もいらいらし始めたがお互いに怒ってしまうと収集がつかなくなるので自分を抑える事にした。

3月12日 7:00

車の中で朝を迎えた。真っ青に晴れ渡っていた。3時間程寝ただろうか。寒さと空腹と大きめな余震で目が覚めた。余震は相変わらずで一晩中揺れていた。少しの揺れでは動じなくなった。しかし10回に1回くらい大きめな揺れがくる。その度に体から血の気が引く。気仙沼までまだ70キロくらいある。昨日の道路状況を鑑みてすぐに出発した。1時間も走らない内に渋滞し始めた。全く進まず1時間で10メートルくらいしか進まない。しかも道がひどい。前日以上に道がひどく運転のスピードも落ちる。約束の時間は過ぎてしまったがお客さんへの連絡はできない。相変わらず携帯はずっと圏外のままだった。11時頃まで粘ったがあきらめて帰ることに。Uターンをし、仙台方向へ。途中で自衛隊の車両を何台も目撃した。沿岸部への道は限られており、彼らも渋滞の中にいた。途中のコンビニに公衆電話があった。おじさんが2人いて話し込んでいた。そこに俺も話しかけた。公衆電話も通じないそうだ。試しにかけてみたがだめだった。1人のおじさんがコンビニの店主だった。店は閉まっていて食べる物や飲み物は全くないとの事だった。タバコならあるとのことだったので2箱買った。前日よりタバコの量が異常に増えた。イライラする事や空腹を紛らわすのについタバコに手が伸びてしまう。


仙台に着いたのは14:00頃だった。Kはどうしてるだろう。仕事に行けたのだろうか。当然電話は通じない。俺は真直ぐ家に戻らず、近くの大きめのスーパーへ向かった。いつも行くところではなく、大きな複合店で駐車場も大きい。たくさんの人がいた。皆向かう先はホームセンターとスーパーだった。俺は食糧調達のためにスーパーへ向かった。長い列ができていて最後尾に並ぶ。途中で隣に並んでいたおじさんと話始めた。そのおじさんは大阪からたまたま来ていて被災したらしい。大阪で阪神の地震を経験していたらしく同じ境遇の俺と話しがはずんだ。名前も知らない人だったけどそのわずかな時間が妙に心地よかった。90分ほど並んでようやく商品カゴを手にした。店の中へは入れず。店の外に商品が置いてある。店員が店内から何度も商品を出す為に出たり入ったりしていた。店内は危険だったのに店員もよくやってくれていた。

カゴは10人くらいに配られそのグループごとに商品を入れる。主に菓子類とフルーツ(リンゴとオレンジのみ)飲料水は500ミリのお茶や紅茶など。カップ麺や缶詰は売り切れていた。最初の説明で1人15点までしか購入できない。その中で飲料水は3点まで。金額は15点で1500円。飲料水は地震の前に2リットルのお茶があったがKの事も考え、3本カゴに入れた。フルーツを2点づつと、少しでも腹に貯まるように米でできた菓子をひたすらカゴに入れた。清算の時に15点を超えていて、2点返した。


家に戻ったがKはいなかった。車の中でテレビを見ていた。ようやく原発の事を知った。仙台市内は断水していて5つくらいの学校が給水のできる学校だった。急いでメモをして学校を調べた。近くの小学校がその中の学校だった。Kが帰ってきたので一緒に学校へ向かった。途中の公衆電話で電話をしてみたがやはり繋がらない。Kは仕事には行けたみたいだが断られたところもあったようだ。その日の仕事の状況を俺とKの分をメールで会社へ報告した。Kの電話はメールも使えなかった。唯一の連絡手段は俺のメールだけだった。


学校はたくさんの人が避難していた。体育館や講堂は人であふれかえっていた。トイレが使えたので用をたす。水は流れず。プールから汲んできた水がポリバケツに入れてトイレの前においてあった。そこからさらに小さい桶に入れて水を流した。グラウンドは給水を待つ人の列が長く伸びていた。話しを聞くと4時間待ちだそうだ。前にも言ったがこの地域は高台で学校も斜面の途中にあった。グラウンドまでは長い階段を下りなければいけない。途中でお年寄りがポリタンクを重そうに抱えていたのでKに手伝うように言った。そんな姿(ネクタイ姿)の俺たちを学校か市の職員と間違えて話し掛けてくる人がたくさんいた。職員じゃない事を伝えながら、わかる範囲の事は答えるようにした。グラウンドでは子供たちが遊んでいた。学校も休校になっているので嬉しい限りだろう。


家に戻ってからも前をポリタンクを持つ人が往来していた。空腹でも力だけはあったので手伝うようにしていた。

Kと今後の打ち合わせをした。翌日は俺は岩手へ行く。Kは山形方面だった。夜になったらGSで給油の列に並ぶ事にした。買ってきた食糧をKと分け合い口にした。しかし全部食べる訳にはいかないので3時のおやつ程度だった。Kとこれまでの事や知りえた情報を交換したが大した情報はない。また車に戻りテレビを付けると原発が爆発した事を報道していた。俺が昨日の夕方に行くはずだった所も避難地域に指定されていた。気づかないうちにまた眠り込んでいた。


また暗い夜になった。電気が点かないので夜は非常に息苦しく、居心地が悪い。Kと話していても昼間と違ってみえる。Kも疲れきっているようだった。一応立場では上司でもあるのでひたすら励ました。多分気休めにもならなかっただろう。しかし話していれば多少は気が紛れる。途中で冗談話をしてみたりもした。Kを励ますだけでなく俺自身を奮い立たせる意味でもあった。21時ごろに2人で家を出た。昨日のGSにまた並んだ。昨日より車の数も増えていて結局ガソリンを入れたのは日が変わった3時頃だった。この日は2000円分入れれた。車のガソリンメータの目盛も7つまで増えた。(満タンで10目盛り)並んでいる途中で何台もパトカーや消防車が横を通過していく。そのGSは緊急車両の指定の店でもあり、そういった車両は列に関係なく店の1つの給油スポットを独占していた。彼らは次々と来ては給油を済ませ立ち去っていく。何時間も並んでいる俺は彼らが妙に恨めしかった。これをみている人は緊急車両だから当然と思うだろう。俺も頭では理解しているが、この状況で常に緊張と不安や恐怖の中では自分の分からなかったり見えない部分から蝕んでいかれていたと思う。一言でいうとまともではなかった。くじけないようにしていても弱い部分がいつも以上にあちこちから顔を覗かせてくる。自分自身との戦いでもあった。

3月11日 17:00

お客さん宅を出てから、最後のお客さんに連絡をするも一向に繋がらない予定時間はとっくに過ぎている。

状況が状況だけに早々にあきらめ岐路につくが、停電で信号も機能しておらず道が混乱している。とにかく渋滞している。雪も降り続け、フロントガラスにどんどん積もってくる。Kとようやく連絡がとれた。無事である事と会社への連絡と翌日の予定について要点だけを簡潔に伝えた。電話は30回くらいかけて1回繋がるかくらいだった。会社へメールで俺とKが無事な事とその日の仕事の状況を報告した。国道4号線に出てからはようやく道が流れ始めた。ひたすら北上し帰路に着く。会社から連絡があり今後の事について話しをした。予定の決まっているお客さんの所へ原則として向かうが無理をしない事。道端で困っている人がいれば手助けをする事。但し命の危険を顧みてまでの行動はしない事。こまめに会社と連絡をし情報の交換をする事。手短に打ち合わせをし、また帰りの道中を急ぐ。車のテレビは相変わらず地震の報道ばかり。ここで初めて津波の事を知った。地震が起きた時から直感で阪神の規模より大きくなると思っていた。


道中はガソリンスタンドもコンビニも全て閉店していた。コンビニが閉店している様子は初めてみる光景だ。かろうじて開いているコンビニも人の行列ができていて皆、食料などを求めていた。仙台のアパートに帰れば食料は蓄えてあった。カップ麺にレトルトカレー、パスタやスナック菓子があった事を覚えていたので安心していた。いつもの倍以上の時間が掛かり仙台に帰ってきた。もう道路は渋滞し、アスファルトが至る所で陥没したり隆起したり地割れしていたりしていて、街灯も消えているので運転は慎重にならざるを得ない。途中で何台も消防や警察車両がサイレンを鳴らし走り過ぎていく。よくみると新潟県警や栃木県警の車両だった。


仙台市に入り自宅近くに来ても帰ってきている実感がなかった。全ての照明が落ちているので町全体が真っ暗で違う場所にいるのかと錯覚してしまう。唯一の情報はカーナビだけだった。最寄のガソリンスタンドが開いていたが真っ暗な中で営業していた。すでに500mくらいの車列ができていた。この時点でガソリンがなくなる事を予感した。自宅に戻ると部屋は真っ暗だった。Kとお互いの無事を改めて確認し、安堵した。会社と打ち合わせた内容を伝え、俺たちも今後細かく連絡を取り合う事にした。Kの話しでは水はでるとの事だったが用を足しにトイレに行ったが既に水道は止まっていた。とにかく暖房器具がいっさい使えないので寒い。昼にコンビニでおにぎりを2個食べただけだったのでとにかく腹が減っている。しかしここでようやく気づいた。カップ麺やカレーにしてもライフラインが止まっているこの状況ではどうする事もできない。Kと共にお互いの食料を確認し合った。とにかく協力しなければいけない。Kの手元には十分とはいえないが菓子類があった。俺には亀田製菓の柿の種があった。小さい子袋で6パックいりの物で前日に1つ食べたので5袋残っていた。その場で1袋だけ食べた。


翌日俺は再び気仙沼市へ行く予定だった。津波の被害や漁港で火災がおきている地域なので行けるかどうかわからない。恐らく時間も掛かるであろう事からもう夜の内から向かう事にした。ガソリンがなくなるかもしれない事をKに伝え、俺はさっきの最寄りのGSで給油をしてから向かう事にした。柿の種と念の為に毛布を1枚車に積んだ。既に時計は日付が変わろうとしていた。家を出ると空が真っ赤になっていた。仙台市の海沿いにある石油か何かのコンビナートが火災で燃えているからだった。夜なので余計に赤く染まっていたようだ。俺はGSに向かい車列の最後尾に並ぶ。結局2時間待ってようやく給油ができた。GSでは若い女の子の店員が頭にヘッドライトを付けて寒さに震えながら仕事をしていた。10リットルしか給油できないとの事だった。ハイブリット車に乗っていたのは運がよかった。それでも仕事柄、走る距離が多いので十分とはいえない。


俺はこの給油時にとんでもない事をしてしまっていた。今でも思い出すと自分を許せない。給油してくれていたその女の子に領収書を発行できるかを聞いてしまった。「発行されないだろう」という気持ちが強かったが「出ればいいな」というスケベ根性をこの状況下で出したのだ。彼女にも家族や自分の時間があるのに・・・。そんな中で一生懸命仕事をしている人にとんでもない事をしてしまったと悔やむばかりです。


給油が終わり気仙沼へ向かうが前日あまり眠れなかった為に1時間ほど走ったところで急激に眠気がきた。広めの駐車場があるコンビニに入ったが当然店は閉まっており、駐車場内ではいつも以上に人がいる。そんな中で駐車場の片隅に車を止め、俺は車内で寝ることにした。まわりもそういう車ばかりだった。ガソリンが勿体無いのでエンジンを切り持ってきた毛布を被った。当然いつものジャンパーもきていたがそれでも寒い。しかし俺にはこの時は寒さよりも眠気があったのですぐに眠り耽った。

3月11日 15:00

小学校に逃げてからどれくらいたっただろうか。まだ余震は続いている。時折大きな余震がきて、一気に緊張感が高まる。携帯で情報を得ようとしても繋がらない。仙台にいるKの事も気になっていた。そんな時にKからメールが入った。「アパートも僕も無事です」 よかった。ボロアパートなので心配していた。俺も無事である事だけ伝えた。メールの送信もすぐには送れず、何度も試みた。


お母さんと奥さんはようやく冷静になってきている様子だったので家に戻る事にした。お母さんはお孫さんを幼稚園に迎えに行くと言いだしたので、俺は奥さんと家にいると伝え別れた。家に戻ってからは奥さんをソファに座らせ、とにかく体の事を気遣った(つもり)。もうすでに電気、水道は止まっていた。しばらくしてお母さんと3才くらいのお嬢さんが帰ってきた。娘さんはいつもと変わらぬ様子で奥さんに甘え、崩れたおもちゃで遊んでいた。俺の事はピアノの人くらいにしか思ってないようだった。俺は子供に寄り添いながら一緒に遊んだ。「怖くなかった?」と尋ねても、「へへっ」と笑っていた。余震は一向に収まらない。1分くらいの間隔で揺れていた。大きな余震も何度もあった。多分震度4から震度5くらいあったと思う。その度に俺は自分でも思いがけない行動をした。子供を引き寄せ、覆いかぶさっていた。普通の生活の中でそんな事をしたら変質者に思われるだろうけど、この状況の中では全くそんな事を考えなかった。


次のお客さんの事を考えていた。もう予定に間に合う時間ではないが連絡しても通じない。俺はさっさと諦め、その家に留まる事にした。別に善意とか偽善者になるつもりではなかった。俺自身の不安が大きかった。俺もその方が安心できたからだ。


電気も止まっているのでテレビもつかない。情報を得る方法を考え、俺の車のテレビを思い出した。車のテレビを見るとどの局も地震の事で関東がひどい状況である事を伝えていた。雪がいよいよ本降りになってきていた。家の中も寒いので車の暖房を入れ、いつでも乗り込める状態にした。仕事が途中だったので全て終わらせ、その後はひたすら時間が過ぎていった。余震はずっと続いてる。1時間くらいして外に出ていた時にご主人らしき人が帰ってきた。俺は自分の身分を告げ、家族のみなさんが無事である事を伝えた。心配されていたみたいで足早に家に入っていかれた。俺は外で待つ事にした。しばらくしてご主人が出てこられて乗ってこられた車から荷物を運び始められた。コンビニで買ってこられたのだろう、大量の食料だった。俺は一緒にそれらを家の中に運び入れた。俺の役目はこれで終わりと考え、ご家族のこれからの安全に過ごす為の方法をわかる限り伝えた。阪神の地震の時に知り得た情報だった。すごく感謝され、特にお母さんはいつまでも俺に頭を下げる。俺はたまたまそこにいただけで何かした訳ではない。今でもあの時の判断が正解だったのか迷う事がある。先にも書いたが俺も不安でどうしていいかわからず、他の人たちと一緒にいる事だけで安心できた。お母さん曰く、女性ばっかりだったので、男の人がいるだけで安心だったそうだ。今振り返ると唯一人の役に立てた事だったと思う。多分意図的とか計算しての行動ではなかったからだと思う。でもその時はそんな事は思わなかった。まだこの先にどんな事があるか分からない中でそれを素直に受け止める余裕がなかった。その時は早くご家族の時間の中に留まってはいけないと思い、「これからも気をつけてください」としか言えなかった。



3月11日 13:00

予定していた時間より早く訪問した。といっても入ったのは20分くらい前。

年配のおばさんが応対してくれた。娘さんらしき若奥さんも奥にいらっしゃるような感じだった。

ピアノは玄関を入りリビングを通り抜け、対面式のキッチンの正面に置いてあった。壁際に寄せてあり、

左側は窓になっていた。すぐ後ろはキッチンカウンターでそこと壁側には子供の玩具やぬいぐるみが多数あった。ピアノはヤマハ U1M 長い間調律していなくて明らかに2度上げしなければいけない状態。しかも午前に次いでフローリングに敷板の状態。やはり午前と同様に万全ではない事を話した。お母さんはその説明に「わかりました」とあいづちするくらい。どうやらこれからまだ小さいお孫さんが弾かれるようだ。

早速仕事に取り掛かる。遅くなると次が間に合わなくなってしまう。一通り内部の点検をした。永年放置されていた事もあって鍵盤のロスがかなり出ている。それを直し、掃除機を借りて鍵盤下の掃除をした。

とにかく時間がない。下律を一気にやってから本調律に入る。その間に若奥さんが隣のリビングに入ってこられてソファに掛けられていたが、ピアノのばしょからは死角で見えない場所だった。

中音、低音と終わり、高音に入っていった。高音も残り2オクターブくらいを残すのみとなった時にリビングにいらっしゃった奥さんの携帯電話がけたたましく鳴り響いた。調律中に電話はよくある事でお客さんがお話中は一旦手を止める。今回も「止めるかぁ」と思い、ハンマーを置いた瞬間だった。地震が発生した。最初は弱くよくある地震と変わらないくらい。しかしすぐに大きくなり家全体が揺すられているような状態だった。とにかく大きい横揺れで、立っていた俺は何かに捕まらなければいられない状態だった。ゆれた瞬間からピアノを押さえていた。いや、押さえてるというよりも俺自身がピアノにしがみついていると言ったほうが的確かもしれない。とにかくひどく激しい揺れで阪神の時以上だ。しかも長い。揺れが小さくなってきたかなって思ったら急に盛り返してくるのが何度かあった。横や後ろにあった玩具類が俺に降り注いでくる。痛いという感覚はなかった。とっさに頭によぎったのはこのまま家が崩れて下敷きになる事だった。それは極限状態での恐怖でしかなかった。本気で「死」という事を考えた。とにかく早く終わってくれとひたすら願った。ふと隣のリビングを見ると、お母さんがテレビを押さえていた。思わず叫んだ。「離れて!すぐにテーブルの下に入って下さい。」少し冷静になれた。奥さんは相変わらず死角で見えない場所にいる。凄い轟音と一向に収まらない揺れ。家全体がきしんでいる音が聞こえた。キッチンの食器棚の引き戸が揺れの振動で勝手に開き、食器が次々と落下している。お母さんがまだテレビにしがみ付いている。また叫んだ。「とにかく離れてください」しかし離れない。俺はやばくなればそのお母さんに飛び込んで行って覆いかぶさる覚悟をした。とにかくお客さんの安全を考えていた。その時点では先ほどのような自分の身の危険や命といった事は全くなかった。自分でも以外だったと振り返る。5分以上揺れただろうか。とにかく長かった。揺れが収まり始めた。すぐに俺はキッチンに向かった。足元には割れた食器や物が散乱するなか、ガスコンロの元栓を閉め、火の確認をした。まだ少し揺れている。そしてリビングに向かった。お母さんはへたり込んでいた。奥さんはソファで腰を落としたままで2人とも呆然としていた。ようやく気づいた。若奥さんが妊婦である事に。

お母さんが震える声で「予定日を過ぎている」と告げた。俺は奥さんの傍へ行き「大丈夫ですか?」と尋ねた。問題はなさそうだ。「よかった」思わず言葉がでた。すぐに後の事を考え、保険証と何か羽織る服を用意してもらった。火の元の安全は確保した事を伝え、2階に火の気があるような物がないか確認をした。家の中の安全を確認した上で2人を座らせ落ち着くように促した。その場所から動かないように伝え俺は1人外に出た。サイレンの音や人々が叫ぶ声がしたが家の前は安全だった。近くに小学校がある事を思い出し、また家に戻り避難する事にした。俺は奥さんに産気づいたら担いで病院に行く気でいたが、家に戻った時には2人とも落ち着いていた。すぐにご主人に連絡してもらうようにしたが電話が通じない。仕方なく2人を連れて小学校まで歩いた。雪が降り始めていたので奥さんを傘に入れ、学校までの道のりを急ぐ。道路は電柱が傾き、石壁が崩れていたりした。極力道の端ではなく真ん中付近を歩くようにし、学校にたどり着いた。小学校では生徒達や他の近所の方たちが避難していた。とにかく寒い。朝の天気とは打って変わって、雪が益々強くなってきた。学校の横の大通りは信号が止まっていて交通が早くも麻痺している。何度も消防車が行き来している。その間も小さな余震がしばしば起こり、たまに大きな揺れがきている。まだ緊張は解れない状態だった。