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ぴあのまん

とあるぴあのまんの日々の奮闘記です。

3月11日 AM4:00

この日の出来事を書こうと思うと1回では書ききれないので時間を追って何回かに分けて書きます。


前日の休みの日に十分睡眠をとったのであまり夜は眠れなかった。

そこまで早く出かける必要はなかったけど、俺は仕事に出かけた。

寝ているKを起こさないようにそっと家を出る。(Kはこの日が休日)

3月とはいえ東北の朝はマイナスの気温に。道路は凍結し、吐く息も白い。

俺は背広を着ずに相変わらずシャツの上にジャンパーを羽織、寒空の下を車のある駐車場へ向かった。

まだ外は暗いがフロントガラスが凍っているのが遠目からでも分かった。

この凍ったガラスを溶かすためのスプレーが寒冷地では当然のように売っていて、それをそれぞれの窓に吹きかける。ウィンドウォッシャー液も凍っていて当然出るわけがない。そのまま放置して5分くらいしてからワイパーを回す。「これでよしっ」 アクセルを踏むとモーター音がし(ハイブリッド車なので)静かに動き出す。

いつもと変わらない朝。ただ仕事柄、いつも行く方面は異なる。この日は福島方面へ。

以前にも書いたが家は山の上なので、下り坂を滑らないように気をつけて運転する。

国道に出てひたすら南下する。1件目は郡山市で福島県の中心くらいにある。仙台から約90キロくらいだったか。

4:00に出たので7:30頃には到着し、近くのコンビニで少し寝ることにした。

1時間ほど休み、予定の時間は9:00なのでお客さん宅に向かった。

ピアノは古いヤマハのU1Eでフローリングの床の上に敷板を置き、設置されていた。

阪神大震災を経験している俺はいつも敷板の場合は転倒の危険性がある事を説明していた。ここでもいつも通り説明をした。ただ積極的に足回りの交換を勧めるのではなく、話しをする程度。

仕事が終わり老夫婦のお客さんが丁寧にお茶を入れてくれた。俺の地震の体験談をどう思って聞いてくれていたのだろう。「また何かあればいつでも連絡をください」そう言ってその家を後にした。

午後からは福島市へ戻り、13:00から。この日は銀行にも行かなければいけなくて、福島市のお客さん宅のそばで銀行を探した。外は寒いながらも晴れていた。銀行で入金を済ませ、予定の時間よりもだいぶ早いので昼食をとる事にした。お客さんの家から目と鼻の先くらいにあるコンビニでおむすび2個と2リットルのお茶を買った。

車の中で食事を済ませた。コンビニ前で女子高生が何やら騒いでいる。やはりどこにでもある日常の風景。

夕方からは双葉郡大熊町というところへ向かう予定で、福島から距離があるため、早く福島を出発したい。

その為に少しでも時間を前倒ししたくて、2件目のお客さんに連絡を入れた。30分早かったがお客さんは快く

了承してくれた。電話の声を聞く限りでは60~70歳くらいの奥さんだった。ここから地獄という言葉が相応しい

であろう非日常の連続が次々と起こる。

3月10日

この日俺は休日だった。

明け方に仙台で同居している会社の後輩Kは仕事に出て行った。

俺はすっかり夢の中だった。

そんな時にまた揺れた。前日と同様、震度5くらいの揺れだった。

17年前の阪神大震災の事がよみがえる。あの時も明け方だった。

あの頃から地震には敏感になっていて、大きな車が建物の横を通過する時の揺れも

地震と勘違いするくらいだった。そのくらいあの時の体験は身に染み付いていた。

幸いこの日の揺れはすぐ収まり、特に変わった様子はなかった。

1日ゆっくり休み体をリフレッシュさせた。

夜にKが帰ってきた。仕事の処理を行い、雑談を交わす。

夕食を買いにKと近所のスーパーへ行った。その道中で対向車の原付が目の前でスリップして転倒した。

路面が凍結していたのだ。俺たちのアパートは青葉城のすぐ近くで山の頂上付近にある。

だから坂道が多いのだ。俺はKに車を停車させ、他の車の誘導をするように指示をし、

俺自身はその原付のおばさんのところへ。幸い怪我はなく道に散乱した荷物を集め、原付を起こし、

おばさんは軽く礼を言い走り去った。

スーパーへ付くと真っ先に向かうのは惣菜コーナー。21時頃になると半額になるからだ。

2日ほど前にKが食べていたホッケがおいしそうだったので。ホッケの塩焼きを購入した。

狭いアパートの一室でKと2人こたつに入って夕食をとる。翌日はKは休みで俺は福島方面で仕事だった。

仙台での平和な夕食。暖かい物をこの先当分口にすることはなくなる事を俺もKも原付のおばさんも、スーパーのいつもレジ打ちしてくれるバイトの女子大生もだれも予想していなかった。



今年3月11日の震災は人々の記憶からは消えないでしょう。

でも実は前兆はあったのです。そこから振り返ります。

2日前の3月9日。

俺は宮城県の気仙沼市に仕事で行っていた。気仙沼といえばフカヒレが有名ですが、

大きな漁港があり、三陸沖の様々な海産物が水揚げされる。

まぐろやほたて、蟹、ほやなど。漁港の傍にはお魚センターみたいなところがあり

そういった品々を購入したり食す事ができるところがたくさんある。

週末には何台も観光バスや他府県ナンバーの車を目にすることができるところ。

俺も実は気に入った店があり、幾度とその店に訪れた事があった。

そこはまぐろの専門店で本マグロやキハダやめばちを手頃な価格で食べれる。


その日の仕事は小学校のピアノの仕事。

年度末になると学校関係の仕事が増えてくる。それは卒業式への準備のため。

その小学校も体育館には紅白幕が張られていたり、椅子が並べてあったりと

卒業式の準備は万端であった。(山間の学校で卒業生が座るであろう椅子は4つしかなかった)

3月とはいえ東北はまだまだ冷える。体育館での仕事の為、俺は上着を脱いで、シャツの上に

ジャンパーを羽織って仕事をしていたが、それでも時折、屈伸をしたり身体を動かさないと寒いくらい。

午前中で仕事が終わり、午後からは仕事はなかったので、昼食はそのマグロの店に行く事を考えていた。


仕事が終わり、車に乗り込んだところ、妙に揺れている感覚になった。風が強い日だったので

風にあおられているのだろうと思っていたがそれでも揺れすぎだ。車を降りてすぐに気づいた。

「地震だ!」17年前に阪神大震災を経験したが、その時と同じ位の揺れだった。

1分くらいで収まり、30秒くらいすると街の公共放送みたいなところから津波注意報が発令された事が

放送された。俺は「ふーん」くらいで特に危機感や恐怖もなかった。そのことが今振り返ると恐怖だ。

マグロは漁港のすぐ傍なので、その日は諦めて帰る事に。道中の国道45号線は海岸線を通り南三陸、石巻、塩竃を通り、仙台まで続く。途中で何度も消防の車とすれ違ったり、海辺で警備をしていた。その国道は起伏が激しいところがあり車で走っていてもアップダウンが結構ある。所々に「津波警戒区域」という看板をよく目にする。

でも俺は何も感じなかった。この2日後にこのあたりは跡形もなくなる事を。




3月11日。

「何の日?」と聞かれれば日本中知らない人はいないでしょう。

そう、東日本大震災

たくさんの命が失われた日。たくさんの家や大事な物が流された日。

たくさんの人の夢や希望が流された日。

この日を境に運命が変わった人が大勢いる。

それは「運命」という一言で表現してもいいものなのか?

しかしそれ以上の言葉が見つからない。

俺自身、偶然か必然か解らないが当日そこに居合わせた。

その惨劇を目の当たりにしてどうしていいかわからなかった。

昨今、メディアや世論は「復興」という言葉をよく使う。

「復興」とは何なのか。流された街を再建すること?道が通行できるようになること?

それではあまりにも陳腐な言葉だと思う。亡くなった方の命は「復興」しない。

生き残った人たちの心はどうなる。これから何十年と汚染された福島第一原発の近隣住民の方たちは?

またそこで今もなお、復旧に携わっている東電社員の方たちは?

日本の真ん中ではそういった事をないがしろにして足の引っ張り合いをしている役人たち。

このままでいいのか?

当初、このブログを立ち上げた時にどうしてもこの東北の現実をたくさんの人に知ってほしかった。

しかしながらこのような場所で何かしたところで・・・という気持ちがためらいをもたらせたのも事実。

俺個人で何かできる事などなにもない。それだったらあの場所からの生還者の一人として、

あの日の出来事をたくさんの人に知ってもらう、後世に伝えていく事が使命だと思った。またそれが俺の

「運命」なんだろう。次回からあの日に遡って回想録を書いていきまさす。

これを見て何かを感じてくれるとありがたいです。

あの日たくさんの犠牲になった方に心から追悼の念とお悔やみを申し上げます。