3月14日 8:00
朝目覚めると澄み渡るような晴れ間が広がっていた。地震のあった日こそ天気は崩れていたが、翌日からはずっと晴れている。でもこんな事になっている日々ではこの晴れの天気も何故か悲しげに映ります。俺の気持ちも一向に晴れる気配はない。俺はこの日が東北での仕事の最終日。Kはまだしばらく滞在する。いよいよこの日にガソリンが入れられないとアウトである。幸いと言っていいのか1件目のお客さんはキャンセルになったので午前中の時間は十分ある。俺は早速国道に出てみた。昨日とは打って変わってGSが所々営業しているではないか。俺は思わず「よっしゃっ」叫んだ。さほど長くない列を探し最後尾に並んだ。この3日間はこのガソリンの事で大変な目にあった。色んな情報が錯綜して混乱していた。Kは最近の若者らしく、ネットでの情報をかなり信頼しているみたいだが俺はアナログ人間なので情報の一つとして収集してもそこまで信用はしていない。実際にKの情報ではずれるケースが結構あった。それはKが悪いとかではなく、やはり最終的には人間は見たり聞いたりする事が大事なんだと感じた。便利になりすぎている事での起きうる問題だろう。話しは逸れたがここでは2時間ほどで給油ができた。時間はまだああるのでもう一回並ぶ事に。11時くらいまでに合計4000円分入れれた。目盛りは8か9くらいあっただろうか。ならんでいる最中に車のテレビを見ていたが、事態は益々深刻になっていた。CMになるとACのCMばかりでテーマ曲が自然に頭に記憶されていく。いまもたまにこのCMを見るとあの日のつらかった日々が思い出される。Kから連絡があり彼も2回並んだとの事だった。とにかく俺は今乗っている車をKに渡すため、Kには安心してほしかった。俺の状況を聞いてKもほっとしたようだった。
午後からは仕事に行った。行った先は4階の自社ビルになっている歯医者さんだった。自宅が最上階で3階より下は診療所になっていた。山形はそれほど被害はなくお店関係やガソリンの事以外は何も変わっていなかった。診療所はたくさんの患者さんが順番を待っていた。いつも通り仕事を終え、お客さんに話しを聞くと山形は震度5くらいだったそうだ。「震度5くらい」と言えてしまうのが自分でも驚く。これは結構な揺れだが福島で6か7くらいの揺れを経験し、余震でも震度5くらい揺れるときがあると感覚が麻痺してくるのだろう。この時は少なからずそういった感覚だった。
夕方のお客さんは山形でも雪の深いところでまだかなりの積雪があった。仕事を終えその家の幼稚園くらいのお子さんに話しかけた。地震は怖くなかったか聞いたが、全く平気だったそうだ。でもこの子だけでなくたくさんの子供たちの記憶にはいつまでも残るのだろう。それが恐怖としてなのか苦労としてなのかはそれぞれだと思うがでもこの体験を糧に逞しくなってほしいと願う。仕事が終わり帰りの道中でコンビニが開いていた。この数日間の仕事の書類が溜まっていたので会社へすべてFAXを送った。店内はそれでも食料や飲料水が品切れ状態だった。家には菓子類はたくさんあったので子袋がたくさん入ったチョコレートのパックを2つ買った。
仙台に着いたのは20:00をまわっていた。アパートにつくとKは既に戻っていたが、電気が復旧していた。でも俺はすぐに蛍光灯を1つ消すようにKに言った。これから節電になってくるのは明らかだったし1つ消えた状態でも不自由はなかった。水道はまだ出なかったがそれでも昨日までの生活を考えるとかなり気分が変わる。こんなに電気がある事がありがたいと思った事もなかっただろう。電子レンジが使えたのでKは早速冷凍食品(停電で常温になってしまっていた)を暖めて食べていた。俺はこの後宮城を離れるので食事はせずに菓子類やレトルト類を全てKに渡した。Kは後1週間ほど滞在する予定なのでそれでも食事を節約して最終日にどこかの避難所に全部寄付するように指示をした。俺はさっき買ったチョコレートを1パックだけ持ってKの車で出発した。ガソリンがどこまで行けば通常に入れれるかわからないので燃費の効率を考えて運転には気を付けていた。いつもは日本海側に沿って走り、新潟県から長野県、岐阜県と南下して帰っていた。今回は福島の方ではガソリンが入れれると聞き関東方面へ下っていった。国道は仙台を過ぎるとまだ停電していて真っ暗だった。高速道が通行止めで国道を走る車がいつも以上に多い。高速は緊急車両や物資輸送の車だけ許可されていて高速と平行して走る時に時折高速を走っているトラックなどが見えた。俺は東北出身ではなかったけどその光景がすごく嬉しく、高速の道端で「ありがとう」と書いた横断幕でも持っていたい気分だった。みんなが悲惨な事になり苦労しているのに俺だけこのまま帰るのがつらかった。よく戦後に生き残った兵隊さんが「自分だけ生きて帰ってきたしまった」なんて言った事を思い出した。俺の心境はその状態とよく似ていた。不自由から開放されるとは全く思わなかった。別に特別東北の人たちに貢献ができるわけではなかったが、またすぐにでも戻って来たかった。大変なんだけどその時間を共有した人たち同士でしかわからない物だと思う。見ず知らずの人ともたくさん喋る事があった。そういった人とまた再会できる事はないだろうけど、何か仲間意識みたいな気持ちが俺はもちろんその相手の人にもあっただろう。わずか数分の事だったのに。それだけ人々が人との触れ合いや温もりを求めていたのだろう。そんな事を考えながら俺は車を走らせる。カーラジオからどの局かわからないけど(たぶん福島のFM局)東北を元気付けるために松任谷由美の「やさしさに包まれたなら」が流れてきた。夜というのもあったけど俺は大声で一緒に歌った。歌いながら何故か今頃になって俺は泣けてきた。張り詰めたものが開放されたのか、帰る事の寂しさか、この歌に純粋に感激したのか分からなかったが曲が終わってからも涙が止まらなかった。