ぴあのまん -35ページ目

ぴあのまん

とあるぴあのまんの日々の奮闘記です。

1年前から東北へは何度も足を運んでいた。東北での仕事は5年前から始めていた。当初は社員が常駐していたが、去年にその社員が辞め、俺とKが出張で仕事をしに行っていた。人を雇うのは簡単だが育てるのが大変で人件費も含め、しばらくは我々が踏ん張るときだったので。車で行くと高速でも10時間くらい。経費を抑える為にいつも下道で行くと18時間くらいはかかる。過去には取引先との商談で飛行機をよく利用していた。仙台空港は比較的新しい空港だった。いつも仕事終わりには、空港内にある土産物屋でずんだシェイクを飲むのが定番だった。「ずんだ」っていうのは枝豆をすり潰した物で、詳しくは分からないが甘く煮詰めてある物をお餅などの中に詰めてあるのがずんだもちといって仙台の名産なんだそうだ。でもその空港もすっかり水浸しになってしまっている。この1年の間に仕事が速く終わった時なんかはよく空港の滑走路の隅に車を止めて、飛行機の離着陸なんかをよく見ていた。あそこも間違いなく津波の被害にあっただろう。


いつもは大体1ヶ月の半分くらいを東北で過ごしていた。でも震災以降は調律の注文も減り、Kだけが東北には行っていた。震災の後には向こうでの生活を考え、車を入れ替え、たくさんの食料と水を持って出かけていっていた。Kから仙台やその他の地域の状況をよく聞いていた。「あそこの店がオープンしていた」「近くのコンビニがそのまま潰れてしまった」とか身近なところが随分と変わってしまったようだった。余震はまだしばしばあるらしく、たまにおおきな揺れがあった時などにKの事を心配していた。実際に東松島市で津波注意報が発令されてお客さんと一緒に逃げていた事もあった。まだまだ予断を許さない状態だった。俺は震災以降は全然東北には行ってなかった。


6月に久しぶりに東北へは行った。青森県に行ったけど日本海側はほとんど被害がなくお客さんもあまり関心があるようではなかった。太平洋側の八戸市に行った時は仕事終わりに漁港へ立ち寄った。金網が壊れていたり、漁港市場が滅茶苦茶になっていた。まだましだったようだ。それでも何人かの人が流されてしまっているとの事だった。


7月、再び宮城に訪れた。4ヶ月経ったのに至る所で地震の爪跡が残っていた。



3月16日 

またまた車で一夜を明かした。長野の田舎道にある道の駅。ここまで来てもまだ寒さは残る。眠い目をこすり長野市から南へ下り岐阜方面へ。ガソリンは余裕があるくらいだった。でもまだ長野でも制限があるようだった。チョコレートは大半を食べつくした。よく2日ももったと思う。岐阜県に入り見覚えのある光景を目にする。帰ってきたんだなぁと実感。多治見市に入ると次はもう愛知県。この辺りではもう東北の姿が嘘のようだった。ここで久しぶりの食事をとる事にした。震災後2日目に食べた牛丼屋とは別の牛丼屋に入った。でもあの時の味と違う気がした。もちろん店も違うので味は違うのだろうけれど。あの時はただがむしゃらに食らいついた感じだった。今ここに帰ってきて、命ある事やこうして落ち着いて食にありつける事にただただ感謝しかみ締める。そしてまだ被災地で何も口にしていない人たちが大勢いる。俺はなんて贅沢なんだと思う。地震の時は生命の危機を感じた。凍えるくらい寒さに震えた。空腹で何もする気が起きなかった。ガソリンが無くてイライラした事も。でも雨と風をしのげる場所があった。Kという信頼できる後輩・・いや部下・・いや仲間がいた。多分Kも同じ気持ちだったと思う。そして何よりは生きていた事が大きい。でもやっぱり素直には喜べない。東北に仕事で通う事になってほぼ1年経った。たくさんのお客さんにお世話になりよそ者の俺たちを迎え入れてくれた。この1年で俺たちの功績と言っていいのかわからないけど評判もよくなり、リピートで依頼される方も増えてきた。そういう人たちが今もまだ辛い思いをしている。俺は贅沢で恵まれている。運もよかった。そう認識しようとしても俺の中に刻まれた物がそれを許さない。頭で理解していてもあの時に一瞬で全てを狂わされたと想う。どうか東北の人たち、家や街は壊されたけど心までは壊されないで。絶対にこの震災で亡くなった人たちを忘れないで。俺は東北出身者ではないけど気持ちは同じところにあると思ってます。


そんな事を考えながらようやく到着した。あまりにも普通すぎる。同じ陸続きとは思えなかった。誰も俺の事をあそこから戻ってきた人なんて思ってもいないだろう。それくらい当たり前の日常だった。会社へ戻り会社の人たちへ挨拶を済ませてまた日々と変わらぬ生活が始まる。


仕事を早く終わらせてもらえた。俺は無性に風呂に入りたくて風呂屋に行った。自分でも驚いた。実は震災の3日前にも宮城で風呂屋に行っていてそのときに計った体重から5kgも落ちていた。風呂は何日振りだっただろう。思いっきり足を伸ばした。体の芯がほぐれていくのがわかる。この上ない安らぎだった。


風呂屋を出て自宅へ帰るが、2月末から家を開けっ放しで食べる物や飲む物が無い事に気付き、近所のディスカウントスーパーへ。ここは安い。だいだい日々の食料や飲料水から日用雑貨まで品揃えもよく深夜までやっているのでよく利用をする。当分の食料とお茶を買おうとしたが、店に入って驚愕した。パンや飲料水やカップ麺といった物がほとんど無くなっている。「買占め」なんて言葉をニュースで聞いたが。まさかこんな事になっているとは思いもしなかった。と同時にすごく気分が悪い。みんな自分の事だけなんだろう。向こうでは見ず知らずの人たちが助け合っているのに。

3月15日 9:00

福島県郡山市のコンビニで一夜を明かした。震災以降は車でしか寝ていない。停電で車で寝ている人は多数いたようだ。しかし燃料も限りがあるので俺はいつもエンジンを止め、エアコンもない状態でいつものジャンパーを被って寝ていた。よく凍死しなかったと思う。中にはGSで並んでいる最中や同じように車で休んでいる人が凍死したり、暖をとるために練炭を焚いて一酸化中毒で亡くなられたり・・・。これもまた震災の犠牲であろう。犠牲という言葉だけではその方たちに本当に申し訳ないと思う。こういう事が起きる事でまた心が痛む。

俺は再び車を走らせる。国道4号線を南下していく。GSは福島でも開いていない。開いている店はどこも長い列ができている。しかしこのままの燃料では到底帰れるだけの量はない。そう思い仕方なくとあるGSに並んだ。割と早く給油できた。それでも2時間くらい並んでいただろうか。並ぶ事が当たり前になっているのであまり時間の事は覚えていない。やはり宮城が1番ガソリンは大変だった。東北一の大都市の割りに空いていた店が少なすぎたのだ。

さて話は福島に戻り、ガソリンは宮城と同じ2000円分だけ入れてくれた。昨日まではハイブリッド車だったので2000円でかなり助かったが今はKの普通車なので今から心配だ。それでも最近の車なので1ℓあたり15kmくらいは走る。極力アクセルを踏み込まないよう気を付けた。道中は所々でガソリンを求めた車の列で道が渋滞していた。だいたい仙台を夜に出れば翌日の夕方には到着できるが俺はまだ夕方になっても福島県にいた。栃木に入ってからは道は流れ始めた。関東中心部も混乱しているだろうから都心を避け北関東を真横に突っ切るように進路を西へ向ける。栃木県足利市から群馬県桐生市などを抜け長野県の軽井沢を通るルートで過去にもこのルートを使った事はあった。足利につく頃はすっかり日が落ちていた。取りあえず車列の少なそうなGSを見つけて再び並んだ。関東でもガソリン不足だったようだ。福島で早めに入れておいてよかった。並んでいたのにあっと言う間に給油できた。30分も並んでいなかった。しかもなんと3000円も入れれたのだ。これは嬉しかった。三重まで帰るには十分だった。Kからも連絡がありKは青森にいた。青森も宮城と同様でガソリンは大変だったみたいだけど時間の限り並んで入れたようだ。

これで俺はガソリンの心配は無くなった。後は食料だった。俺の唯一の食料はパックのチョコレートのみ。それを節約して食べていた。仕事柄1日何も食べれない事があるので空腹には強かったがそれでも腹は常に空いていた。群馬あたりだっただろうか途中の道の駅でトイレに行った。ここでは水も電気も普通に通っていた。俺は何日振りかにトイレの手洗い場で顔と手を洗い、歯も磨けた。手を洗う事がこんなに気持ちがいいものと思えたのも初めてだった。蛇口を捻れば当たり前のように水が出る。やはり生かされているなぁと感じ、命ある事に感謝した。多分普通に生活しているだけではこんな事は思わなかっただろう。そしてその感謝の気持ちと同時にまた被災地の事を思い出す。そんな事を考えながら長野県に入った。軽井沢は雪で視界が悪かった。こんなとこで事故で死んだら東北の人たちへ申し開きができない。運転に細心の注意を払った。まだまだ三重は遠い。

3月14日 8:00

朝目覚めると澄み渡るような晴れ間が広がっていた。地震のあった日こそ天気は崩れていたが、翌日からはずっと晴れている。でもこんな事になっている日々ではこの晴れの天気も何故か悲しげに映ります。俺の気持ちも一向に晴れる気配はない。俺はこの日が東北での仕事の最終日。Kはまだしばらく滞在する。いよいよこの日にガソリンが入れられないとアウトである。幸いと言っていいのか1件目のお客さんはキャンセルになったので午前中の時間は十分ある。俺は早速国道に出てみた。昨日とは打って変わってGSが所々営業しているではないか。俺は思わず「よっしゃっ」叫んだ。さほど長くない列を探し最後尾に並んだ。この3日間はこのガソリンの事で大変な目にあった。色んな情報が錯綜して混乱していた。Kは最近の若者らしく、ネットでの情報をかなり信頼しているみたいだが俺はアナログ人間なので情報の一つとして収集してもそこまで信用はしていない。実際にKの情報ではずれるケースが結構あった。それはKが悪いとかではなく、やはり最終的には人間は見たり聞いたりする事が大事なんだと感じた。便利になりすぎている事での起きうる問題だろう。話しは逸れたがここでは2時間ほどで給油ができた。時間はまだああるのでもう一回並ぶ事に。11時くらいまでに合計4000円分入れれた。目盛りは8か9くらいあっただろうか。ならんでいる最中に車のテレビを見ていたが、事態は益々深刻になっていた。CMになるとACのCMばかりでテーマ曲が自然に頭に記憶されていく。いまもたまにこのCMを見るとあの日のつらかった日々が思い出される。Kから連絡があり彼も2回並んだとの事だった。とにかく俺は今乗っている車をKに渡すため、Kには安心してほしかった。俺の状況を聞いてKもほっとしたようだった。

午後からは仕事に行った。行った先は4階の自社ビルになっている歯医者さんだった。自宅が最上階で3階より下は診療所になっていた。山形はそれほど被害はなくお店関係やガソリンの事以外は何も変わっていなかった。診療所はたくさんの患者さんが順番を待っていた。いつも通り仕事を終え、お客さんに話しを聞くと山形は震度5くらいだったそうだ。「震度5くらい」と言えてしまうのが自分でも驚く。これは結構な揺れだが福島で6か7くらいの揺れを経験し、余震でも震度5くらい揺れるときがあると感覚が麻痺してくるのだろう。この時は少なからずそういった感覚だった。

夕方のお客さんは山形でも雪の深いところでまだかなりの積雪があった。仕事を終えその家の幼稚園くらいのお子さんに話しかけた。地震は怖くなかったか聞いたが、全く平気だったそうだ。でもこの子だけでなくたくさんの子供たちの記憶にはいつまでも残るのだろう。それが恐怖としてなのか苦労としてなのかはそれぞれだと思うがでもこの体験を糧に逞しくなってほしいと願う。仕事が終わり帰りの道中でコンビニが開いていた。この数日間の仕事の書類が溜まっていたので会社へすべてFAXを送った。店内はそれでも食料や飲料水が品切れ状態だった。家には菓子類はたくさんあったので子袋がたくさん入ったチョコレートのパックを2つ買った。

仙台に着いたのは20:00をまわっていた。アパートにつくとKは既に戻っていたが、電気が復旧していた。でも俺はすぐに蛍光灯を1つ消すようにKに言った。これから節電になってくるのは明らかだったし1つ消えた状態でも不自由はなかった。水道はまだ出なかったがそれでも昨日までの生活を考えるとかなり気分が変わる。こんなに電気がある事がありがたいと思った事もなかっただろう。電子レンジが使えたのでKは早速冷凍食品(停電で常温になってしまっていた)を暖めて食べていた。俺はこの後宮城を離れるので食事はせずに菓子類やレトルト類を全てKに渡した。Kは後1週間ほど滞在する予定なのでそれでも食事を節約して最終日にどこかの避難所に全部寄付するように指示をした。俺はさっき買ったチョコレートを1パックだけ持ってKの車で出発した。ガソリンがどこまで行けば通常に入れれるかわからないので燃費の効率を考えて運転には気を付けていた。いつもは日本海側に沿って走り、新潟県から長野県、岐阜県と南下して帰っていた。今回は福島の方ではガソリンが入れれると聞き関東方面へ下っていった。国道は仙台を過ぎるとまだ停電していて真っ暗だった。高速道が通行止めで国道を走る車がいつも以上に多い。高速は緊急車両や物資輸送の車だけ許可されていて高速と平行して走る時に時折高速を走っているトラックなどが見えた。俺は東北出身ではなかったけどその光景がすごく嬉しく、高速の道端で「ありがとう」と書いた横断幕でも持っていたい気分だった。みんなが悲惨な事になり苦労しているのに俺だけこのまま帰るのがつらかった。よく戦後に生き残った兵隊さんが「自分だけ生きて帰ってきたしまった」なんて言った事を思い出した。俺の心境はその状態とよく似ていた。不自由から開放されるとは全く思わなかった。別に特別東北の人たちに貢献ができるわけではなかったが、またすぐにでも戻って来たかった。大変なんだけどその時間を共有した人たち同士でしかわからない物だと思う。見ず知らずの人ともたくさん喋る事があった。そういった人とまた再会できる事はないだろうけど、何か仲間意識みたいな気持ちが俺はもちろんその相手の人にもあっただろう。わずか数分の事だったのに。それだけ人々が人との触れ合いや温もりを求めていたのだろう。そんな事を考えながら俺は車を走らせる。カーラジオからどの局かわからないけど(たぶん福島のFM局)東北を元気付けるために松任谷由美の「やさしさに包まれたなら」が流れてきた。夜というのもあったけど俺は大声で一緒に歌った。歌いながら何故か今頃になって俺は泣けてきた。張り詰めたものが開放されたのか、帰る事の寂しさか、この歌に純粋に感激したのか分からなかったが曲が終わってからも涙が止まらなかった。

3月13日 21:00

俺もkもどうする事もできなくなっていた。いったい何故俺たちがこんな目に逢わなければいけないのか。自分達の無力さに憤りを感じた。こんな大変さを知らずにのうのうと暮らしている人たちに腹立たしささえ感じた。くさっていても仕方がないので俺はKをつれて避難所になっている小学校へ向かった。電気が通じていない街は不気味な雰囲気だった。本当にそこに人がいるのかわからないくらいで、映画でみるような廃墟に見えた。その半面空を見上げると星がすごく綺麗だった。真っ暗な中なのでより星の明るく見えた。こんな何気ない事がこの状況では新鮮に思えた。そしてそれが少しの希望にもなった。今でもこんな些細な事を鮮明に覚えている。すごく静かで物音すらしない。こんな窮地にたたされているのに感覚が研ぎ澄まされているのが自分でもわかる。この時に肌で感じた空気はまた新鮮だった。だいぶ気分が晴れた。小学校は相変わらずたくさんの人が避難していて夜にも関わらずざわついていた。発電機を使用してわずかな明りも灯っていた。先ほどとは対照的に人の体温の温もりがそこにはあふれていた。昇降口を入るとホワイトボードが置かれ、休校の知らせや人工透析の案内が張り出されていた。真っ暗なトイレで用を足し、自宅へ戻り今後のプランを立てる。明日は俺は山形で午後から。午前の人は前日にキャンセルになった。俺は明日仕事が終わったら東北を離れる。Kは仙台市内でその後もこちらにとどまる。明日の夜にお互いの車を入れ替える事にした。俺のハイブリット車だとかなり燃費がよく、このような事態では負担が少なくて済むためだった。そのために今晩から再び給油をしに廻る事にした。Kが一足先に家を出た。俺は荷物を纏めたがどうにも腹の虫がおさまらない。菓子類はKのために残しておきたかったのでレトルトのカレーを温めずに食べた。固まった油分が浮いていても苦にならなかった。こんな冷めたカレーでも人間を動かすエネルギーになった。

1時間くらいで山形県天童市についた。早速GSの車列に並ぶがすぐに売り切れになってしまった。その後山形市やその周辺を廻るがどこも閉まっていた。こんな事なら仙台で長く並んでも入れてくるべきだった。今さら悔やんでも仕方がない。俺は一か八かで翌日の朝に賭ける事にした。早々にこの日の給油を諦め、また道の駅へ向かった。前日も前々日も明け方に少し寝ただけだったのでこの時間からだと十分に休める。ずっとこの間、睡眠も十分ではなかったのに眠気はほとんどなかった。それだけ張りつめた緊張感があったのだろう俺は泥のように眠った。