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ぴあのまん

とあるぴあのまんの日々の奮闘記です。

昨日は岩手の陸前高田市と大船渡市に行ってきました。ご存知でしょうが、両方共沿岸部に位置し、津波でめちゃくちゃになった街です。今回は諸事情があって写真はありません(ごめんなさいしょぼん

震災以前に訪れたことのあるところで、震災後は初めて訪問しました。すっかり町並みは変わっていました。半年も経過すると、瓦礫は片付けられて全くの空き地になってました。そこに雑草が生い茂っていて、ただの空き地に見えてくるのです。よく見ると家の基礎の跡や、外壁の跡が残っていてそこに建物があったことがわかるような状態でした。こんな風景が半年の時間の流れを感じさせてくれます。街の外れには仮設の診療所や公的な施設があり、その横には集まった瓦礫や滅茶苦茶になった車が山のように重ねてありました。沿岸部の街はどこも同じような風景です。道も仮設の道路があったり、砂利道になっているような所もありました。カーナビは役に立ちません。ナビの表示されている道が無くなっていたり、目印のコンビニやファミレスがなくなっているので。鉄道の線路も橋脚部が流され、踏み切りも流されていました。線路は錆付き、雑草が生えていてまるで廃線になったローカル線のようでした。災害支援のダンプカーがあちこちに走っていました。街は静かで、人はたくさんいるようですが、遠くで重機のエンジン音がよく聞こえました。港では漁師さんたちが、浜辺の掃除をしていました。天気もよく、海はすごく穏やかでした。そこだけ見ると、あんな惨劇さえわすれるようでした。でも振り返るとそこには現実の世界が・・・。仕事が終わって、青森に向けて沿岸部を北上しました。夜でほとんど街の様子は窺えませんでしたが、国道の至る所に看板が出ていました。「津波浸水想定区域」と。高低差のあるところで、低い地域や集落になるとこのような案内がありました。しかしその区域を過ぎても津波の被害はありました。どこだったか忘れたけど、昭和8年に三陸地震でここまで津波がきたというような看板もありましたが、今回ははるかにそれを上回っていました。

昼間に陸前高田市でお墓を見つけました。今回の震災で亡くなられた方たちのお墓でした。墓石もなく、塔婆らしき物があり、墓標もなかったです。火葬されずにそのまま土に埋められたお墓でした。あまりにも悲しすぎる現実でした。どのような方たちのお墓かはわかりませんが、亡くなられた方の無念を考えると、すごく苦しいです。せめて瓦礫の土ではなく、きれいな土に埋めてあげたかった。どうか故郷の地で安らかに。あなた達の分も一生懸命生きます。

忙しかったあせる
ようやく落ち着きました。先週はピアノを引き取りに行ってました。水曜日の夕方からK君と関東まで行ってました。
そして金曜日の朝一で引き取ってきたピアノを下ろし、夕方には東北へ向けて出発しました。日曜日から宮城で仕事をしてます。
あれから半年経っても生々しい現場があちこちにあります。
最初に行ったお客さんの家も津波に襲われた家でした。


これは3件となりの家です。震災で倒壊した模様。奥の道路は仙台東部道路です。この道路も堤防の役目になり、この道路の向こう側はほとんど被害がなかったようです。
お客さんの家は床から10センチほどまで波がきたそうです。部屋の扉やふすまが全てなくなってました。床も綺麗にはなってましたがまだ湿っぽく、足を乗せると水が染みてきそうな状態でした。
そしてピアノはというと




幸い内部には被害はありませんでした。ただキャスターが錆び付いてます。しかもインシュの中にはまだ水が残ってました。雑巾を借りて拭いたのですが、錆と匂いが酷かったです。テレビでの報道は少なくなってきましたが、まだこういった細かい被害は至る所にあります。
そして何よりも


仮設住宅です。これ以上近くでの撮影は住んでいる方の事もあったので控えました。恐らく100世帯くらいの方が住んでいるようです。この日は天気もよく、敷地内では子どもたちが遊んでました。この子たちは一生津波の恐怖を背負って生きてくのでしょう。でもこの体験を忘れずたくましく生きて欲しいと願います。

東日本大震災の回想録は一旦、今回で終了です。

何か書いていくうちに小説っぽくなってきてしまっていましたね。

長々とした文章で読み辛かったのではないでしょうか?

でもあれが体験した人間の生の声です。

また東北に行く事になるでしょうから、色んな情報を発信していきます。

まだ東北では被災者の方たちがたくさんのご苦労をされています。

この記事をご覧になった皆さんで少しでもいいので、何か力になれる事を考えていきましょう。

「お金のある人は義援金を送ればいい。お金がなければ力を貸せばいい。お金も力もなければ祈ればいい」

調律に行ったお客さんが仰ってました。この言葉で俺は何もできなかった事を悩み苦しんでましたが、

だいぶ救われました。

お付き合い頂き、ありがとうございました。

余談ですが、もし東北に行く機会があればマスクを忘れずに。多分粉塵でだと思うけど、喉をやられてました。

また車でいく場合は、できるだけ現地の方を優先させてあげてください。タイヤにも注意が必要です。

俺もKも瓦礫の中の釘とか金属類を踏んでパンクしました。


次回からまた訳のわかんない調律日記をつけていきます。



さて、仕事終わりに石巻の市内を巡ってきた。


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この日の川面は穏やかでした。あの日この川が

全てをさらっていきました。

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わかりにくいかも知れないけど、橋が仮設で作られた橋です。


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ここは1年前に調律に伺った幼稚園。1F部分は何も残ってなかったです。

アップライトとグランドとあったのに。

この撮影をしている100mくらい後ろが先に載せた写真の川があります。

そこから津波が押し寄せた模様。


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川の中州にはまだこんな光景が。よく見ると船の右斜め前に花が咲いている。


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人々の希望の象徴のように咲いていた。


実はこの中州には漫画家の石ノ森章太郎さんの博物館があり、そこも滅茶苦茶になっていました。

入り口には割れたガラスの変わりに板が打ち付けられ、そこには全国からボランティアで訪れた人の寄せ書きが書かれていました。その中で一際目立ったのが、藤岡弘さんの熱いメッセージでした。

「仮面ライダー参上!」って大きく書かれていかれたようです。俺が来る1週間前に来られていました。


俺は、このメッセージや寄せ書きを見て、本当に感動しました。南三陸で撮影は止めておこうと思っていたけど

記録として残しておくべきと思い、何枚か撮ってみました。

俺はなんて無力なんだとつくづく思いました。そしてまた涙がこぼれる。

俺はこの光景を前にして、手を合わせる事しかできなかった。


7月に4ヶ月振りに宮城に行った。

福島へは行かなかったのだが、最初の仕事が宮城県の南部に位置する白石市に行った。もうすぐ隣が福島県という町だった。道はデコボコでマンホールが皆さんテレビなどでご存知のように1mくらい飛び出しているような所が多数あった。お客さんの話では、福島第一原発から80㎞圏内で放射能の値も基準よりだいぶたかいらしい。体などの異常はないが、やはりあまり気持ちのいいものではない。


仕事が終わり仙台のアパートへ向かった。給油の為に家の近くのあのガソリンスタンドへ向かった。通常通り営業していて、ガソリンも問題なく入れれた。元々セルフの給油所で入れ終わってからカウンターでお金を支払うシステムの店で、精算の時にお店の人に話しかけてみた。震災の時は相当過酷な状態だったようだ。俺はあの時の事をどうしても礼を言いたくて感謝の気持ちを伝えた。今更って感じだけど、出張で4ヶ月ぶりに訪れた事を付け加えた。アパートではKとの共同生活。節電の為、電灯は一つを消し、エアコンはつけない生活だった。


7月10日に気仙沼市に行った。震災2日前に訪れていらいだ。確かあの時も津波注意報が出ていた。気仙沼に近づくにつれて街並みが様変わりしてくる。瓦礫の集まってるところや、流された車を集めているところがあちこちに目につく。市内に入るとそこはもう街ではなかった。あたり一面瓦礫と土砂ばかりでかろうじて道らしきものがある程度。カーナビでは飲食店やコンビニが表示されていても現実はそこには何もない。過去に何度も足を運んでいるところなので、知っている店や、立ち寄った事のある店がどこも無くなっていた。お客さんの家は漁港のすぐそばでいつも行くマグロの店も近かった。漁港は壊滅状態でマグロの店もなくなっていた。幸いお客さんの家は高台で坂道を登っていった頂上付近だった。到着する頃に街のアナウンスが入った。また地震が発生し津波注意報が発令されたとの事だった。俺は焦った。あの時同じ津波注意報で微動だにしなかったのに。お客さんは高台だから大丈夫と言ったが、それでも俺はいつでも逃げれる事と、逃げた際のお客さんとの待ち合わせ場所を打ち合わせた。子供が2人いて、いつでも担いで逃げる用意をしていた。高台なので漁港の様子がよく見えた。


幸い1時間くらいで警戒解除になったが、テレビでは震災以来の津波を観測したようだった。仕事が終わり、俺は南三陸町を経由して帰る事にした。本当は行きたくない感情があったが、生き証人として見ておかなくてはいけないような気がした。南三陸はひどかった。映画に出てくるような廃墟が当たり一面を支配している。匂いもひどい。瓦礫のいたるところに重機が入り、かたずけているようだったが、人の生活の雰囲気は全くなかった。道も所々で途切れていて、自衛隊の人が作った仮設の道路や迂回路ができていた。ここでどれだけの人が亡くなったのだろう。俺はこの光景を忘れる事はないだろう。写真に収めようとしたがあの光景を見て、あそこに住む人や亡くなられた方の事を考えると、興味本位で撮影するのは申し訳ないと思い撮影はしなかった。


その後、しばらく宮城に滞在したが、最終の日に急遽、見積もり希望のお客さんの予定が入った。石巻市で津波に浸かったピアノを使えるか見てほしいとの事だった。この手の依頼は震災後にかなりあった。当初の頃は生活の基盤を立て直すための依頼で、処分するか残すかといった判断をするための見積もり依頼だったが、徐々にそれは使う為の見積もりにかわっていった。最初の頃は使えようと不能だろうと、その判断を下すだけで、修理とか処分の手配といった事の依頼はなかったけど、最近は使えるようなら修理といった先に進む依頼が増えていた。こういうところからも少しづつではあるけど人々が復興に向けて進んでるなぁと、Kと喜んでいた。


石巻の街も気仙沼同様にひどかった。まだ電気のきていないところがあり、交差点では警察官が暑い中で、交通整理をしていた。近くの駐車場に車を止め、歩いてお客さんの家に向かった。足元はガラスの破片や木材、鉄板といったありとあらゆる物を超えていかなければいけない。歩くのさえままならないじょうたいだった。ここでも匂いはひどく、悪臭がただよっていた。ピアノはグランドピアノで完全に水没して使える状態ではなかった。1Fの天井付近まで海水が来たらしく、部屋の中という感じがしなかった。ピアノのふたも硬く閉ざされ、開けるのにだいぶ苦労した。鍵盤が全く動かず、弦もさび付いていた。俺はお客さんに辛い宣告をした。お客さんはわかっていたらしく、「ありがとう」と一言礼を言われた。