7月に4ヶ月振りに宮城に行った。
福島へは行かなかったのだが、最初の仕事が宮城県の南部に位置する白石市に行った。もうすぐ隣が福島県という町だった。道はデコボコでマンホールが皆さんテレビなどでご存知のように1mくらい飛び出しているような所が多数あった。お客さんの話では、福島第一原発から80㎞圏内で放射能の値も基準よりだいぶたかいらしい。体などの異常はないが、やはりあまり気持ちのいいものではない。
仕事が終わり仙台のアパートへ向かった。給油の為に家の近くのあのガソリンスタンドへ向かった。通常通り営業していて、ガソリンも問題なく入れれた。元々セルフの給油所で入れ終わってからカウンターでお金を支払うシステムの店で、精算の時にお店の人に話しかけてみた。震災の時は相当過酷な状態だったようだ。俺はあの時の事をどうしても礼を言いたくて感謝の気持ちを伝えた。今更って感じだけど、出張で4ヶ月ぶりに訪れた事を付け加えた。アパートではKとの共同生活。節電の為、電灯は一つを消し、エアコンはつけない生活だった。
7月10日に気仙沼市に行った。震災2日前に訪れていらいだ。確かあの時も津波注意報が出ていた。気仙沼に近づくにつれて街並みが様変わりしてくる。瓦礫の集まってるところや、流された車を集めているところがあちこちに目につく。市内に入るとそこはもう街ではなかった。あたり一面瓦礫と土砂ばかりでかろうじて道らしきものがある程度。カーナビでは飲食店やコンビニが表示されていても現実はそこには何もない。過去に何度も足を運んでいるところなので、知っている店や、立ち寄った事のある店がどこも無くなっていた。お客さんの家は漁港のすぐそばでいつも行くマグロの店も近かった。漁港は壊滅状態でマグロの店もなくなっていた。幸いお客さんの家は高台で坂道を登っていった頂上付近だった。到着する頃に街のアナウンスが入った。また地震が発生し津波注意報が発令されたとの事だった。俺は焦った。あの時同じ津波注意報で微動だにしなかったのに。お客さんは高台だから大丈夫と言ったが、それでも俺はいつでも逃げれる事と、逃げた際のお客さんとの待ち合わせ場所を打ち合わせた。子供が2人いて、いつでも担いで逃げる用意をしていた。高台なので漁港の様子がよく見えた。
幸い1時間くらいで警戒解除になったが、テレビでは震災以来の津波を観測したようだった。仕事が終わり、俺は南三陸町を経由して帰る事にした。本当は行きたくない感情があったが、生き証人として見ておかなくてはいけないような気がした。南三陸はひどかった。映画に出てくるような廃墟が当たり一面を支配している。匂いもひどい。瓦礫のいたるところに重機が入り、かたずけているようだったが、人の生活の雰囲気は全くなかった。道も所々で途切れていて、自衛隊の人が作った仮設の道路や迂回路ができていた。ここでどれだけの人が亡くなったのだろう。俺はこの光景を忘れる事はないだろう。写真に収めようとしたがあの光景を見て、あそこに住む人や亡くなられた方の事を考えると、興味本位で撮影するのは申し訳ないと思い撮影はしなかった。
その後、しばらく宮城に滞在したが、最終の日に急遽、見積もり希望のお客さんの予定が入った。石巻市で津波に浸かったピアノを使えるか見てほしいとの事だった。この手の依頼は震災後にかなりあった。当初の頃は生活の基盤を立て直すための依頼で、処分するか残すかといった判断をするための見積もり依頼だったが、徐々にそれは使う為の見積もりにかわっていった。最初の頃は使えようと不能だろうと、その判断を下すだけで、修理とか処分の手配といった事の依頼はなかったけど、最近は使えるようなら修理といった先に進む依頼が増えていた。こういうところからも少しづつではあるけど人々が復興に向けて進んでるなぁと、Kと喜んでいた。
石巻の街も気仙沼同様にひどかった。まだ電気のきていないところがあり、交差点では警察官が暑い中で、交通整理をしていた。近くの駐車場に車を止め、歩いてお客さんの家に向かった。足元はガラスの破片や木材、鉄板といったありとあらゆる物を超えていかなければいけない。歩くのさえままならないじょうたいだった。ここでも匂いはひどく、悪臭がただよっていた。ピアノはグランドピアノで完全に水没して使える状態ではなかった。1Fの天井付近まで海水が来たらしく、部屋の中という感じがしなかった。ピアノのふたも硬く閉ざされ、開けるのにだいぶ苦労した。鍵盤が全く動かず、弦もさび付いていた。俺はお客さんに辛い宣告をした。お客さんはわかっていたらしく、「ありがとう」と一言礼を言われた。