人形浄瑠璃の今日における価値とはなんであろうか。

連日の、文楽協会の支援金問題に関する報道や各方面の意見をみる度に、考える。

人形浄瑠璃は、どうしたら必要とされるのか。
なくてはならないものとなれるのか。


一つの面としては、一度失われては二度と生き返らせることのできない、
不可逆の様式美を可能な限り受け継いでいくことに意義があると思う。

画面越しでは大変伝わりにくいのであるが、
江戸時代の人の動き、型、哲学に基づいた動き、音声の挙げ方、
三位一体となって人形に魂を宿そうとするその果てしない労力の素晴らしさ。

人の手を介して連綿と受け継がれてきたものを保存する血脈。
これはどうしても維持しなければならない。

一方で、一つの表現手段として、人形浄瑠璃はどれほどの意味を見出されているだろう。

一つの人形を三人で操るという、一見非効率で不合理な方法。
江戸時代の関西の方言を標準語とする、現代人にとって耳馴染みのない地の文とせりふ回し。
感覚的に理解しにくい、時代背景。

この、現代人にとって分かりにくさの詰め合わせを、いったいどうやって
「意義のある表現芸術」
として息づかせることができるだろうか。


世話浄瑠璃において考えた場合、
まず「あまりにグロテスクに、世間をホラーとしてあぶりだす手段」としての浄瑠璃を考えられないか。

私たちの生きる世間など、恐ろしいことばかりだ。
建前では、人と人は寄り添い合うことで明日も生きることができるはずなのだが、
実際のところの我々は、常に隣人と衝突を繰り返し、
挙句の果て命まで落とさねばならない。

そんなやりきれない無残さを、世話浄瑠璃は美しい恋人たちの死にざまにかこつけて描き切ってしまう。

例えば、あの美しい道行文で有名な『曽根崎心中』は、
真面目で誠実だが少し頼りない男が、親友と思っていた男に金を騙し取られ恥をかかされ、
世間に身の置き場をなくして死に転がり落ちていく話である。

『女殺油地獄』は、未熟で血気ばかり盛んな世間知らずの若い男が、
内にひそむ混沌を御しきれずに理由なき惨殺に走る話である。

世間にとってはちっぽけな、けれど彼らにとっては等身大の、視界が真っ暗になるような悩みの中で、
いつのまにか道を踏み外していく。

ほら、彼らはあなたの隣にいる、誰かに似ていないだろうか。


世話浄瑠璃の登場人物たちは、どれもあまりに個性の薄いキャラクターで描かれる。
たった数十万やただのいがみ合いで、
命を落としてしまうような、ひ弱な存在である。
その人物造型は、人形遣いと、大夫と、三味線に寄ってのみ辛うじて命を与えられる、
あの人形たちに、ぞっとするほどお似合いなのである。
その無表情さは、人口一億二千万人の私たちの、分身の様なのである。

彼方で、手招きをしているのだ。
あのかわいらしい傾城の人形の頭が、向こう側で、笑いかけているのだ。


あなたの物語を語って見せましょう、と。
『S/N』
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これは、世の中のコードに合わせるためのディシプリン
私の目に映るシグナルの暴力
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自分自身が、世間とずれていないことを100%の自信を持って生きているものなどいるのだろうか

何者かによってでも、それを証明しうるものはいるのだろうか

空気が読めない
変わってる

そうやって、少しずつ蝕まれていく、大人しい、自我。

例えば

不具であること
セクシャルマイノリティであること
外国人であること

そんなわかりやすい分類名によって
自力では乗り越えることのできない
「中心と周辺との壁」を築かれてしまった人々は
体内に生まれたひずみを
如何に蓄積させているのだろう

例えば

男であること
女であること
あなたであること
私であること

そうした移ろいやすい理由によって
不条理にも周縁に追いやられてしまった人々は
心と体が分離しそうな今日明日を
如何に生きていくというのだろう

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あなたが何を言っているのかわからない
でも
あなたが何を言いたいのかはわかる
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周辺からはこんなにも
温かい視線が注がれているというのに
誰にとっても、自分が美しくないということに気付くということは、
とてつもない絶望だと思う。


誰にとっても、自分が取るに足らない、死んでも構わない人間であるということに気付くということは、
死に勝る絶望だと思う。


私は、私に恋をして
恋をしている内に
世界から醜いと罵られてしまった

自分が自分の築いてきた美しい自分の幻想が、
明日、
いや、
今この瞬間消え失せるものだと気付いた時

幻に限りなく近い現世に
愛想を尽かさず明日をも生きていける人間が、
どれだけいるだろうか。

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その瞬間のリリコは
誰よりも
美しかった
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美しいと思う人、
美しくある瞬間、

それが誰にとっても違うのだとしたら
美しくない私をわざわざ悲しむことに

どれだけ意味があるのだろうか。
可愛い架空のキャラクターに好きな歌を歌わせる
Vocaloidという文化。
好きとか、楽しいとかそれだけじゃない。
今は「萌え」という単語に託される魅力。

人形浄瑠璃だってそうだ。

精巧に作られた、小さな顔、小さな手。
それらが、お茶目な動作で喜び、
体を震わせて嘆き、
抱き合いながら死に至る。
もうとんでもなく、当時の人にとって魅力的なエンターテイメントだったのだ。


今は伝統芸能とか言って高尚な何かのように思われているけれど、
そんな取っつきにくさってただ単に古い言葉を使っているだけのこと。
当時の関西弁で書かれた、なんとも庶民的で親しみのある娯楽なのだ。


初音ミクの歌に、曽根崎心中がある。
ヘビメタにあわせて曽根崎心中の道行文を歌わせる。

美しいと思う曲に合わせて、
美しいと思う言葉を歌う。

人形浄瑠璃も、
Vocaloidも

みんないいと思う根元はきっと一緒だ。
誰にでもうまく伝えられない、言葉にできないことがあって、
理解されない必然があって、

繋がっていたかにみえたそれぞれの腕は、

ふんづけられて、解きほぐされていく。


胸の底に漂う悲しみがあって、
でもそれに理由はなくて、
ただふさわしい世界に生まれなかったことで
生涯解放されることのない鬱屈に由来する悲しみかも知れなくて

それに気づいて、むしろ忠実に生きようとした人の一人が、

熊太郎だと思う。

ようじょこの場の、がちゃがちゃして収拾不可能な混乱は、
熊太郎にとっての世界そのものだ。

ずれて、ずれて、ずれて、

世界が牙をむく。

そしてある時突然、
自分が生きる意味などないのではないかという
疑念が心をよぎる。


引き返さなかった彼が悪いのか。
卑屈だった彼が悪いのか。


弾かれるべくして世間のメカニズムにむりやり組み込まれた、
ゆがんだ歯車が悪いのか。