それは風船がぱちんとはじけるように起きる
ぱちんとはじけるように起きるのだ

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当たり前に普通に生きている日々のさなか
突然堪忍袋の緒が切れることがある。

キレる

ということだろう。


突如膨れ上がり暴走する感情をあとから振り返るにつけ、
刹那的な自分の性を嘆くとともに、
理性以外の油断ならない何かが自分の中に住んでいることを感じ、
自己満足的な安堵に陥る。


まだ小学生のころ、
自分には突然なにかの力が発現し、
非日常的な生活を送るのだと無意識に、そして当たり前に信じていた時期があった。

ゲーム脳、の一種だろうか。

それはあるなんでもない瞬間、
そう、近所の交差点を友達とともに自転車で渡った瞬間だった、
自分が非現実の世界に生きることを当たり前に思い、信じ、
そしてそれは一生叶うことなどないということ、これらを一気に知覚したのだった。
今も鮮烈に覚えている。

そして月日がたち、人並みに社会に適応して生活できているかにみえるけれど。

ふと思うのだ、
不思議な力でも、
異世界から来た使者でも、
この世界の崩壊でもない、
自分自身によって、
日常が非日常になる瞬間が起こりうるということを。

突然、常識もルールも思いやりもコミュニケーションもキャリアプランもなにもかも忘れて、
自分の怒りが暴走することによって。

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惨劇は突然起きるわけじゃないよ
そんなことがあるわけがない

それは
アホな生活、
退屈な日常のさなかに用意されている。

そしてそれは、風船がぱちんとはじけるように起きる。
ぱちんとはじけるように起きるのだ。
「にっこり笑って」


大の大人の、歪みにゆがんだ忠義の形が
観客の目の前でぱっと咲いて儚く散る、
そんなむなしい華やかさの一方で。

語られることしか許されない身代わりの子の無残な死がある。


松王丸は首実検の役目を自ら担い、
わが子の生首を目にする。

顔で笑って。
心の中は、泣き笑い。

わが子の生首を目にするという
狂った状況を自らお膳立てして、
忠義が立ったと喜ぶ。


そして聞く。

「あやつの最期は、さぞ駄々をこねて困らせたことでしょう。」

まるで、子供を預かってくれた隣の人に詫びるように、
わが子を打ち首にした相手に言う。
そして、手を下した源蔵は言う。

「いいえ、菅秀才の身代わりだと説いたら、あの子は
にっこり笑って首を差し出しました」
「にっこり笑って」

ここには。
親の忠義のため身代わりにされる子の身の上を思う憐憫や
封建社会の理不尽さに対する憤りが到達しえない、
ある超越した世界の風景がある。

首を打たれる小太郎には
何を感じていただろうか。

耳が痛くなるほどの沈黙。
自らを置いて行った父と母の思い出。
抜けるような青い空、
そして終焉の暗闇。

忠義の意味も、
やむにやまれぬ事情も、
彼の心を理屈づけていたわけではあるまい。
淡々と、目の前に姿を現した残酷な姿の運命の手を、
言われるがまま握っただけである。

やるせないほどの素直さ、純朴さ。


沈黙の青空が、彼の小さな首の上に、
いつまでも横たわっている。


---【観劇備忘録】---
2/18 国立劇場2月文楽公演 『菅原伝授手習鑑』『日本振袖始』
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忠義の人と認められ生きるなら結構。
死して忠義と褒められるなら結構。

でも、自らの負い目や人を思うが故に、
蔑まれ、貶まれ、
それでも心の中に誰も知らぬ忠義を宿して
死に向かって生きる、
そんな酷な生き方を自ら描く人物がいる。

いがみの権太。
玉手御前。

彼らは、自らの死を前提に、親や主人の忠義立てを誓う。
それは、きっと、彼らにとって至極当然の感覚なのかもしれない。
自分が生きていては、かなえられない他人の幸せがある。
自分が好かれては、かなえられない他人の夢がある。

そんな、酷な現実を受け入れて、
物語の輪郭を、
描いていく。


一方で。

彼らのその肉体が滅びる時に、
眼から滲み出る涙は、
忠義という、彼らが心に立てた強靭な心の壁を、
乗り越えてあふれ出た、
理屈の無い叫びであろうと思う。


---【観劇備忘録】---
1/22 国立文楽劇場初春文楽公演 『義経千本桜』
3/4 京都文化芸術会館文楽公演 『摂州合邦辻』
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弱者で優しくてかわいい。

三匹の猫 関羽は、のんびりと、
「今が幸せだからいいにゃ」と
その日々を過ごしている。
それがとてもうらやましい。

力はないけれど、けなげで、かわいい。
『恋と忠義はいづれか重い
かけて思ひははかりなや』


自分の親を鼓にされて、その「初音の鼓」の音を慕う狐忠信。
その想いはとても悲しいと思う。
やるせなくて、せつなくて、
それでもその気持ちとは別に、静御前に仕える狐忠信。

人形浄瑠璃文楽の世界には、こうして
滑稽だけれどもどこか笑い飛ばすことのできない、
切ないキャラクターがしばしば存在する。


いや、しばしばなどではなく、
すべての登場人物がそうなのかもしれない。


わたしたち現代人にとって、
昔話の人物なんて言うのは、
みんななにかしら下らない義理や決まり事や世間体や、
執着やこだわりに縛られていて、
生きたいように生きられた試しがない。


各々が、それこそ当時の人々に
「馬鹿だねえ」
「不器用だねえ」
なんて嘲られて、要領悪く悲劇の顛末に転げ落ちていくのである。



人形浄瑠璃なんて、人間の身体の半分ほどしかない人形を
大の大人が三人で寄って集って操って、
声のない人形の台詞は、別に大夫が喋ってやって、
三味線やら笛やらがBGMで参戦して、
それでようやっと成り立ってる舞台なのである。

狐の化けた侍と義経を追って日本中旅する白拍子の
「さあこれから向かいましょう」
なんて陽気に舞い踊ってるだけのシーンに、
大の大人が何人も何人も、たくさん役割分担をして必死でそれをこなして―――――――――

ようやっと成り立っているのである。

不器用なのである。

なのに、その不器用がいとおしい。


人が三人も、にょっきとその後ろに佇んでいるのに、
ちゃんと狐忠信が愛しく感じられる。



たぶん、そう思えるのは、
大の大人が何人も何人も、寄って集って、一つの人形に、
魂を「宿そうとしているから」、
今のところ、私はそうだと考えている。
「魂を宿している」のではない。
人形というものに、魂が宿って、自然に動くことなどないのだから。

それを割り切って、それでも「宿そう」とする。

そのことが、何かとてつもない緊張感になって、
客席側に伝わってくるときに、
人形は、狐忠信や、静御前や、九郎判官義経に「みえる」ことがあるのではないかと、
そう考えている。

それは本当はあり得ないのだけれども、不思議なことにそう「みえた」時に、
なんだか当たり前のように美化されていた人物たちは、
とても滑稽で不器用な一人の人間として、忽然と姿を現す。

そのとき、ふと。
ああ似ているなあと思うのだ。人なんて変わらないなあと思うのだ。


「かすかに、ひっそりと、恐怖の出来事は日常のそこここに棲みついています。ホラー小説はこの極小の兆しまたは痕跡を極大化する。…この方法により、わたしたちはわたしたちじしんの恐怖を明視することが可能になるのです。「SFがほんとうにうまくしごとをしたとき、それは見知らぬものを飼い慣らしたりしない。それは飼い慣らされたものを見知らぬものにする。それはわれわれを旅に連れだし、そこでわれわれは見知らぬものに出会い、その見知らぬものが自分自身であることを知る」(R・スコールズ)。これは、ホラー小説でも変わりません。(『高橋敏夫教授の早大講義録 ホラー小説でめぐる「現代文学論」』まえがき、高橋敏夫、宝島社、2007年)



見慣れたものが見知らぬものになった時に、初めてその醜くて卑小な本性を思い知ることができる。
私たちは、
義経とか、静御前とか、なんだか美化されちゃった人たちが、
「現実的に無理あるでしょ」っていう演出の中でなんとかその役をやりきろうとしている現場に出会うと、
なんか知ってるものが、自分が見たくないものが、突然スポットライトを浴びせられたような感じがする。


日常世間と慣れ親しんでいくことを当然のこととされながら、
その日常世間は対して報いてくれることもなく、
むしろ他人との衝突を強制する。

それをもう嫌というほどわかっているけど、
知らないことにしている。
そして、自分でもわからないうちに、疲弊している。
私たちは、自分たちの、その醜くて卑小な本性に蓋をしている。

狐忠信を見るときに感じるいとおしさなんてものは、自分が蓋をしているものを
飼いならしながら実は腐らせているという、後ろめたさゆえの共感なのかもしれない



「古典演劇が伝統を受け継いで今も上演される意味は、
現代人が当時の社会の保存された一瞬に立ち会い、
日常性を超えたところで一から人間に出会えることにある。
普段たくさんの人に触れ合っていて、ああ嫌だな、疲れたなと思っていても、
古典の舞台では、その日常から離れた所で、一から人間を発見し出会うことが出来る。
だから伝統や伝承は、現代人の一時的な好みで歪曲されてはならない」
(元W大教授 U氏最終講義より)


…それでも。文学や芸術なんてものは、たまにこうした飴と鞭を行使する。



「辛い目ばかりに日を半日、心を伸ばすこともなく.死なうとせしも以上五度.…」(『心中宵庚申』)
→(現代語訳)「毎日毎日ほんとキツくてさ、超ストレス溜まってマジ死んじゃおうかとおもったよ」


こんなセリフ、現代のドラマなんかで言われても「こっちだって疲れてんだよ」とか言いたくなるが、
人形浄瑠璃の、自分とは違う世界に生きる、くそまじめな不器用町人がポツリと言うと、
「人間変わらんなぁ」
とあきれとあきらめ半々な気持ちになる。


見るほうをみじめな気持に突き落としときながら、
まあみんな一緒だよとか言って肩を叩いてくる。



そんな天邪鬼で八方美人な人形浄瑠璃が私は大好きです。




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国立劇場平成23年二月公演

『義経千本桜』
・渡海屋・大物浦の段
・道行初音旅
2/6 18:00 開演

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※このブログは、こんな感じで鑑賞・観劇の感想を交えつつ
基本的に自分にとってのゲイジュツ観をダダ漏れさせていくブログです。
若干、研究視点での意見等も挟みますが基本的なスタンスは
「現代の普通の若者が芸術(特に古典)を見たらどうなるか」
ですので、話半分にご覧いただければ幸いです。