僕の実家は新興住宅街にある。

10年ほど前に引っ越したのだ。

その家は山間部にあった牧場や山林を伐採し、開拓した新興住宅地で、
比較的新しくてきれいな家が多い。

住んでいる人たちも、教師、医者、引退した公務員、社長など
金持ちが多い。

僕はその中でも比較的中級階層が多い区画に住んでいる。

僕の家の向かいに、これまた立派な家がある。

しかし不思議なことにこの家の持ち主はすぐに変わる。

僕が大学を卒業し、帰省してから、3回は持ち主が変わっている。

特に近所づきあいもないから詳しい経緯は知らない。

ただ何度かこういうことがあった。

まだ妹たちが学生で、親と同居していた頃の話。

冬に兄妹の3人で、居間で映画を見ていた。

居間の隣には客室として使っている和室がある。

その日はそのふすまを開きっぱなしにしていた。

電気は消していたが居間からの光が漏れ、
ちょうど和室が見えるような状況であった。

すると妹二人が突然キャっと叫んだ。

何があったのか聞くと、和室を白い影が横切ったのだと言う。
その影が来たのが例の向かいの家の方角なのである。


こんなこともあった。

夜中に突然犬が吠えることがある。
うちの犬だけでなく隣家の犬もである。
泥棒かと思い、外に出て様子を見た。

誰もいないし、人がいた形跡はない。
吠えている方向を見ると向かいの家が見えるのである。


こんなこともあった。

これは僕が経験した話。
僕の部屋は丁度道路に面している。

暑くて窓を開けていた。
いつの間にか寝てしまった。

夢の中で、僕は現実と全く同じシチュエーションで自分の部屋で寝ている。
こういう現実的な夢を見るのはとても珍しい。

すると窓の向こう、ちょうど向かいの家から
何かよくない者が飛んでくるような気がした。

窓を閉めなくてはと思うのだが、金縛りにあったかのように体が動かない。

足だけが何とか動き、かろうじて窓を閉める。
その瞬間、窓がバーンと大きな音を立て、まるで何かがぶつかったかのような衝撃があった。

うわーーーーっと叫んで目が覚めた。

何も変わりはなかったが、窓は閉まっていた。


今も向かいの家には人が住んでいる。
最近、テレビでいじめを苦に自殺した子どもの責任を、
学校や自治体に対して追及して、訴訟する親がいる。

子をなくした苦しみ、哀しみは深いことは分かる。
そして子を死に追いやった者への憎しみも分かる。

しかし、どうなのか・・・

基本的に学校や自治体は、
あなたの子どもをいじめ、死に追いやったりはしない。
いじめを推奨したりしないし、
もし、いじめのような人間関係トラブルや、
理想と現実の格差から来る絶望、人生の挫折だとか、
そういったつらいことを与えるとしたら、
それは「学校」ではなく、「社会」である。
そして多くの人は、そうした「社会」と戦い、それに馴染むように必死で生きている。
上手に、要領よくできている人もいれば、
不器用なりに、つまずきながら立ち向かっている人もいる。

もし責めるなら、いじめをした加害者を責めるべきではないのか。

仮に、我が子を追いつめた、環境というものを責めるのであれば、
真っ先に
子を理解し、受け入れ、守り、導くべき立場にあった
親(自分)自身を責めるべきではないのだろうか?

奥には、その責任転嫁で
学校や自治体といったスケープゴートに八つ当たりしているようにしか見えない。

感情的には分かる。
誰かを責めることで、心に空いた穴を埋めたいのだと。
自分の子は間違っていなかったことを証明したいのだと。
そして自分の無力さから、目をそらしたいのだと。

でも、それは違う。

いじめは、学校や会社といった組織の見えないところで行われる。
組織は決してそれを推奨し、助長したりなどしない。

いじめられる側に責任があるなどとは言わない。
それに、組織がいじめなどのトラブルを隠したがることにも否定はない。

しかし、学校側の立場も分かる。
誰かが被害者となった時、そこには加害者が存在する。
この場合、加害者も子どもであり、
その未成熟な考えの「彼」にも未来があり、
そして何より「彼」を守ろうとする親がいる。
不執拗にその「彼」を組織が責めた場合、
今度はその「彼」自身が追い込まれて「自殺」する恐れもある。
その時、組織は積極的な「加害者」となる。

組織は積極的な加害者にはなってはいけないのだ。

故に、いじめの原因探しにも慎重にならざるを得ない。
そしてこういった事件にはハイエナのような
人を死に追い詰めようとすることに鈍感で、貪欲なマスコミが存在する。
誰かを追及することが、真実や社会悪の追及だと誤解している愚か者どもだ。

だから学校側を責めるなということではない。

もちろん組織は、子を預かっている以上、
責任を問われる立場であるのに異論はない。
問題を解決するために、悲劇を繰り返さないために
組織は批判され、よりよい方向へ成長していかなくてはならない。
その意味で、責めれらることは当然である。

しかし裁判となると話は別だ。

誰かに責任を求めるのであれば、
純粋に刑事的責任として、いじめの加害者自身
刑事的に追及するべきだと思う。
そして、その自己責任の追及こそが
子ども自身に、「人をいじめること」の罪を、責任を、それがどれだけ悪いことなのか、
人を傷つけ、自分を貶める行為なのかを自覚させることなのではないか。

だからこそ、「いじめ」という行為、現象の責任を、
環境だとか、組織だとか、
間接的な、そしてあいまいな者に求めてはいけないと僕は思う。

そして何より、
親こそが、子どもは自分で守るという意識、
子どもの最後のよりどころであるという自覚、
子どもの理解者として誰よりも責任がある存在であるという認識を
はっきりとさせなくてはならないと思う。

もちろん、それは僕ら第三者や、マスコミが責めることではない。

親自身が自ら責めることである。

だからなのか
いろいろとニュースを観ながら、
親が、誰かを責めている姿がTVで堂々と流されている状況に、
僕は違和感と、何かこう、むなしさのようなものを感じるのである。


自殺はダメだ。
全てが加害者になってしまう。
もちろん死んだ人自身も。
妹がいる。

上の妹は結婚しているのだが、
その妹に子が生まれた。
今日である。

僕はおじさんになった。

子も、妹も無事だそうだ。
一安心だ。

出産祝いにベビーカーが欲しいと言うので
どうしていいかも分からず
西松屋に行ってみた。

オススメを聞いたら3万円弱のがあった。

でもデザインとか好みもあるだろう。
よくわからん。
聞くと5万円くらいするのもあるとか。

むぅ・・・

さて、姪と対面したら僕はどうなるのだろうか。

僕は子どもが好きだ。

僕も子どもだからだ。

でもどこかまるで遠くのおとぎ話のよう。