最近、テレビでいじめを苦に自殺した子どもの責任を、
学校や自治体に対して追及して、訴訟する親がいる。

子をなくした苦しみ、哀しみは深いことは分かる。
そして子を死に追いやった者への憎しみも分かる。

しかし、どうなのか・・・

基本的に学校や自治体は、
あなたの子どもをいじめ、死に追いやったりはしない。
いじめを推奨したりしないし、
もし、いじめのような人間関係トラブルや、
理想と現実の格差から来る絶望、人生の挫折だとか、
そういったつらいことを与えるとしたら、
それは「学校」ではなく、「社会」である。
そして多くの人は、そうした「社会」と戦い、それに馴染むように必死で生きている。
上手に、要領よくできている人もいれば、
不器用なりに、つまずきながら立ち向かっている人もいる。

もし責めるなら、いじめをした加害者を責めるべきではないのか。

仮に、我が子を追いつめた、環境というものを責めるのであれば、
真っ先に
子を理解し、受け入れ、守り、導くべき立場にあった
親(自分)自身を責めるべきではないのだろうか?

奥には、その責任転嫁で
学校や自治体といったスケープゴートに八つ当たりしているようにしか見えない。

感情的には分かる。
誰かを責めることで、心に空いた穴を埋めたいのだと。
自分の子は間違っていなかったことを証明したいのだと。
そして自分の無力さから、目をそらしたいのだと。

でも、それは違う。

いじめは、学校や会社といった組織の見えないところで行われる。
組織は決してそれを推奨し、助長したりなどしない。

いじめられる側に責任があるなどとは言わない。
それに、組織がいじめなどのトラブルを隠したがることにも否定はない。

しかし、学校側の立場も分かる。
誰かが被害者となった時、そこには加害者が存在する。
この場合、加害者も子どもであり、
その未成熟な考えの「彼」にも未来があり、
そして何より「彼」を守ろうとする親がいる。
不執拗にその「彼」を組織が責めた場合、
今度はその「彼」自身が追い込まれて「自殺」する恐れもある。
その時、組織は積極的な「加害者」となる。

組織は積極的な加害者にはなってはいけないのだ。

故に、いじめの原因探しにも慎重にならざるを得ない。
そしてこういった事件にはハイエナのような
人を死に追い詰めようとすることに鈍感で、貪欲なマスコミが存在する。
誰かを追及することが、真実や社会悪の追及だと誤解している愚か者どもだ。

だから学校側を責めるなということではない。

もちろん組織は、子を預かっている以上、
責任を問われる立場であるのに異論はない。
問題を解決するために、悲劇を繰り返さないために
組織は批判され、よりよい方向へ成長していかなくてはならない。
その意味で、責めれらることは当然である。

しかし裁判となると話は別だ。

誰かに責任を求めるのであれば、
純粋に刑事的責任として、いじめの加害者自身
刑事的に追及するべきだと思う。
そして、その自己責任の追及こそが
子ども自身に、「人をいじめること」の罪を、責任を、それがどれだけ悪いことなのか、
人を傷つけ、自分を貶める行為なのかを自覚させることなのではないか。

だからこそ、「いじめ」という行為、現象の責任を、
環境だとか、組織だとか、
間接的な、そしてあいまいな者に求めてはいけないと僕は思う。

そして何より、
親こそが、子どもは自分で守るという意識、
子どもの最後のよりどころであるという自覚、
子どもの理解者として誰よりも責任がある存在であるという認識を
はっきりとさせなくてはならないと思う。

もちろん、それは僕ら第三者や、マスコミが責めることではない。

親自身が自ら責めることである。

だからなのか
いろいろとニュースを観ながら、
親が、誰かを責めている姿がTVで堂々と流されている状況に、
僕は違和感と、何かこう、むなしさのようなものを感じるのである。


自殺はダメだ。
全てが加害者になってしまう。
もちろん死んだ人自身も。