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ジョリのブログ

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 熊本が地震で大変だというのに、こんなことを書いていていいのかという気もしたのだが、書いておく。

 ポリーニのサントリーホールの初日のリサイタルに行ってきた。ホールの前まで行くと、6時半の開場を待って、けっこうな数の人だかりができていた。六本木一丁目駅を出たところにある、パン屋のポールで買ったパンをかじりながら、開場を待っていた。自分と同じ音楽を愛している人たちの集まりなのに、なぜか、自分と似ているような人、あるいは、自分が親しみを感じるような人があまりいないのが、不思議な気がした。

 ポリーニのリサイタルが発表になる前から、舟歌をずっと聴きたいと思っていた。曲目の発表があって、舟歌とあったので、先行発売の初日に迷わずにチケットを買った。お金もないので行くのは一回だけにしようかと思っていたが、結局、次の公演でやるポロネーズの7番は、とてつもなく好きな曲なので、21日のチケットも買ってしまった。

 初日の感想だが、感動するというわけじゃなかったけれども、しみじみとして、とても良かった。今まで聴いたポリーニの演奏の中でも、かなり良かったと思う。派手さはないのだが、あっという間に時間が流れていくような感じで、本当に心地が良かった。ポリーニの弾く音楽に包まれていると、日常で感じているめちゃめちゃな気分が、自然に癒やされていくような気がした。シューマンはそれほど期待していなかったのだが、それもとても良かった。

 そして肝心の舟歌だが、ものすごく良かった。期待どおりの演奏だった。
 まるで本当に、どこか美しい景色の中、舟に揺られているような感じがした。今はすっかり無くしてしまった幼い頃だけに感じることができる、なんとも言えないような平和な気持ちだ。ポリーニの手がはっきり見える位置から聴いていたのだが、思わず目を閉じて聴いていた。

 それから、自分の記憶のために、アンコールの曲目をカジモトのサイトから、コピペしておくと、こんな感じだった。
 
4月16日(土)19時 サントリーホール

ショパン: エチュード ハ短調 op.10-12 「革命」
ショパン: スケルツォ第3番 嬰ハ短調 op.39
ショパン: ノクターン 変ニ長調 op.27-2

 アンコールの選曲は最高だった。
 アンコールの最後の曲のノクターンの後、ずいぶん、長く拍手がやまなかった。アンコールというと、もっと、曲をやって、という感じの拍手もあるような気がするのだが(勝手な解釈かもしれないが……)、今回のポリーニのアンコールの時の拍手は、そんなんじゃなくて、みんなが一緒になって、純粋にポリーニ様、いい音楽を聴かせてくれて、ありがとう、と伝えようとしている拍手だったような気がした。本当にありがとう。少なくとも自分は、ポリーニ、ありがとうと思いながら、拍手をし続けていた。

 明日も楽しみだ。

 PS 関係のない話だが、学生時代の友人から、今日、メールが届いていた。彼女は、熊本の出身で今も熊本に住んでいる。20年ぐらい前に熊本を訪ねたことがあって、阿蘇山に連れていってもらった記憶がある。被災したけれども、無事にやっているみたいなことが書いてあった。
 アマゾンのプライムに加入すると、プライムミュージックで、かなりの数のポリーニの演奏が聴ける。アマゾンのfireが安かったので、つい買ってしまったのだが、端末はポリーニのアルバムでいっぱいになった。
 こんど電話で話す機会があったら、ちょっと勧めてみようかなと思う。クラシックが好きだったか、どうかは定かではないのだが。





 
 

 

 太宰治の万年筆の実物は横浜の文学館で、太宰治展をやっていた時に見たことがある。これが太宰が書いていたものかと、圧倒されるような気持ちで、ずっと見つめていた記憶がある。
 正月にネットの記事をなんとなく読んでいたら、今、話題の芸人で作家でもあるM氏が、ゴロウチャンネルという番組で太宰の万年筆と同型のものをプレゼントしてもらったとあった。本当なら、いいなあと思った。

 実はずいぶん前からebayで太宰の万年筆とそっくり同じものを探していたのだ。太宰の万年筆はeversharpというアメリカの万年筆で、doricというカテゴリーのものだ。doricとは、多角形の角ばったペンという意味で理解していたが、そもそもの意味はギリシアのドーリア式ということらしい。ebayでebersharp、doricという検索で、太宰と同じ万年筆を探すことができる。

 ところで、youtube上で、ゴロウチャンネルというものを探し、M氏が太宰の万年筆をもらっているところを実際に見てみた。(ずいぶん前の放送で、5月7日の放送だ)心の中では太宰と同じ万年筆は、ちょっと難しいだろうという疑いの気持ちがあって、確かめてみたくなったのだ。それで、youtubeにアップされていた少し粗い映像を確認してみた。ほんの数秒、稲垣くんが渡した万年筆をM氏が手にしている映像があったのだが、ああ、やっぱり違うと思った。少しほっとした気持ちになった。

 映像が粗いので、はっきりとはわからなかったのだが、まず、違うことは間違いない。
 ネットの記事とはあてにならないものだ。太宰の万年筆と同型とネットの記事で書いてあったので、そっくりそのままのものだろうと思っていたのだが、たしかにeversharpの万年筆で、色も黒、形も同じdoricのように見えたが、ペンのキャップのふちについている飾りが、太宰のものとは違って、ついていないように見えた。
 あれは違うだろう。普通なら、あれを太宰と同型の万年筆とは表現しないだろうし、もらった人のほうでも、普通の判断基準を持ち合わせているなら、太宰の万年筆だとは感じはしないだろう。

 さっき書いたように、太宰と同じ万年筆があれば落札しようとebayをチェックし続けていたのだが、eversharpのdoricという形のものは、アメリカに固定ファンがいるようで(もちろん、太宰治とは関係がない)、けっこういい値段で落札されている。状態のいいものは、3万円以上の落札価格になることもあり、軽い気持ちで買えるものでもない。
 そして、ずっとebayを見続けていた経験から言わせてもらうと、太宰が使ったのと全く同じ形のものは、まず出てこない。どこが違うのかといえば、さっき書いたペンのキャップのふちの金の飾りだ。
 ネット上にある太宰の万年筆の実物の写真の画像(青森県立文学館の画像)は、ぼんやりとしていて、はっきりと確認できないのだが、ペンのキャップのふちに金の飾りがまきつけてあり、(そして、ここが大切なポイントになるのであるが)、模様が特殊なのだ。
 模様には何種類かの形があり、よくオークションに出ているのが、尖った逆三角形の模様なのだが、太宰が使ったであろうペンの模様はこれではなく、飾りが、「ひし形」の模様になっている。(青森県立文学館の画像は、模様がつぶれていてはっきり判断できない。だが、まずこの模様に間違いないと思う。)

 もう一つ重要なポイントなのが、ペン先の形だ。インクが出るところに切り込みがあり、ハート型をしているもの、と長い楕円形をしているものなどがあるが、太宰のものは、ハート型に見える。ちなみに、M氏が受け取った万年筆の、ペン先の形は確認できなかった。
 それらの基準のどれかに合うものは、いくつもの出品されているのだが、すべての基準、 1)ペンの形と色、2)ペン先の切り込み、3)キャップの模様など、にあてはまり、これぞ、太宰の万年筆、というものは、まず出てこなかった。あと一つで完璧というものはあったが、全部、一致するものは、まず、見つけることができなかった。

 それでこれが話のオチになるのであるが、去年の年末についに完全に条件に一致する万年筆をebayで見つけた。すべての条件に一致した、まさに、これぞ太宰の万年筆、というものだった。

 さて、その万年筆を私が落札したかどうかであるが、私がもらった年賀状の数(5枚)よりも少ない読者のみなさまの想像におまかせすることにする。
 最後に、ebayにあった、ペンの画像を載せておく。
 



 
 エルトン・ジョンの声の力、感情のこもりかたって、なみなみならぬものがあると思う。この曲は、30年ほど前に、テープに録音して、けっこう好きだった。




 今日も、例の安宿に泊っているのだが、別に変わったことはない。

 特に話題もないので、最近、会った有名人の話を書いておく。
徳光さんには、たしか3ヶ月ほど前に、昼休みの時間帯に、三省堂から明治大学へ行く道を、ロケの人かなんかを連れて歩いているのに、ばったりでくわした。徳光さんは、前にも、高尾山を登っているところを見かけたことがある。

 それから、名前がぱっと出てこないのだが、パナソニックの広告によくでていて、MOZUとかいう刑事ドラマかなんかに出ている人も、この前見かけた。今日も、地下鉄の扉の上の、宝くじの広告に顔が映っていた。名前、なんだったけ?
 見かけた場所は、浅草。一緒にいたのは、例の銀行ドラマで悪役上司をやっていた香川照之。

 今、ネットで、MOZUというのを調べた。そうだ、西島秀、なんとかだ。秀俊だ。調べてみても、やっぱり、おじさん世代は、ぴんとこない。

 人だかりがして、通行制限みたいなものをしていたので、なんだろと思って、人だかりの方へ行くと、西島さん、ちょーかっこいい、やばい、とか、若い女の子が言っていた。
 西島さんのことをあまり知らないおじさんは、通路なので、人だかりを突き破って、西島さんの近くまで行き、そのまま、通りすぎた。近くから見ると、すらりとして、たしかにかっこ良かった。しかし、あまり、オーラというものは、感じなかった。

 ただ、それだけの話。