念願だった、太宰の生家の斜陽館に、この前の8月20日に行ってきた。
30年ほど前、学生時代に一度行ったことがあったが、当時は、確か旅館かなんかになっていて、宿泊客じゃなければ中に入ることができなかった。それで太宰の家の前で、写真だけ撮って帰ってきた記憶がうっすらとある。
太宰の生家は、けっこう前に太宰の博物館になっていて、ずっと行きたいと思っていたのだが、行く機会がなかった。15年ぐらい前に猫を拾って、あまり家を空けられなかったこともあるが、それよりも金銭的なことも含めて、いろんな意味で余裕がなかったのだ。
去年飼っていた猫が死んで、かなりショックだったのだけれども、まあ、そのせいで少し家を空けて旅行に行けるようになった。この夏、ちょうど時間の余裕もあったので、思い切って行ってみることにした。
そんなわけで、30年来の念願がかなって、太宰の生家の中に入ることができたというわけである。
ちょっと感想を言うと、なんだか、ずっと前から知っている、自分の家に帰ったような、そんな不思議な感じがした。故郷を出た太宰が、ずっと金木の実家に帰っていなくて、やっと戻ったといった気分を実際に味わったような気すらした。
帰りの新幹線の中で、たった一冊持っていった新潮文庫の『津軽』の後半部分を読んでみた。読んでいくと、涙がボロボロ、ボロボロと出て止まらなかった。
ロシア文学とかは、ずっと読み続けていたが、日本の小説では村上春樹なんかを読むことが多くて、早稲田に村上春樹の記念館もできたり、例のノーベル賞のお祭り騒ぎのせいもあってか、村上春樹の方が、太宰よりもずっといいのではないかというような印象すら持っていた。 しかし、あらためて太宰をじっくりと読んでみると、村上春樹とはまるきり別物だと感じた。どっちがいいとか、悪いとかそういうことじゃなくて、太宰は、やっぱり本物だと感じた。
太宰の生家の中に入って、太宰の家や太宰の実際に使った机やマントなんかを見た後、その印象を心に抱えたまま、『津軽』を読んでみると、今までよりわからなかった小説の中の情景が、ありありと目に浮かぶようで、太宰の小説が、すーっと心に染みこん伝わってくるような気がした。これも、津軽という土地に行った効用だと感じた。
新潮文庫の『津軽』の巻末に、太宰と仲の良かった文芸評論家の亀井勝一郎氏の評論が載っていて、こんなことを書いてある。
『斜陽』と『人間失格』が有名だが、彼の本質を一番よくあらわしているのは『津軽』である。私は全作品の中から一篇だけ選べと云われるなら、この作品を挙げたい。
まさに、そのとおりだと思う。自分も『津軽』は、大好きだ。
太宰の生家の様子は、いろんな人がブログとかホーム・ページにあげているようなので、特に詳しく紹介することもないだろう。とりあえず、行っってきたという証拠に、太宰の生家の階段から、表の玄関上の、二階の窓の部分を内側から写した写真を載せてみた。
また、気が向いたら、少しずつ、今回の旅行のこととか、太宰についてとか、書いてみようと思う。
