とても一生懸命、歌を歌う人だ。
とても一生懸命、歌を歌う人だ。
今日、朝、電車の中で、ふと隣の座席に座っているおじいさんが読んでいる本を見てみたら、「ただ、一さいは過ぎて行きます。」という太宰の「人間失格」文章だった。
そうか、このおじいさん、こんな歳でも、まだ太宰ファンなのか、太宰の命日の6月13日に、太宰の本を読むなんて、なかなかたいしたもんだと思ったら、自分の勘違いで、この農家の風のおじいさんは、ただ、いろんな人の有名な文章を集めた名言集のような類の本を読んでいただけのことだった。
ところで、今日は太宰の命日で、ひさしぶりに三鷹の禅林寺に行ってお墓参りでもしよかと思ったものの、少し仕事で疲れていたし、今日は仕事が終わって、三鷹に向かっても、お寺の閉まる日没の時間には少しぎりぎりになってしまいそうだったので、行くのはやめた。
まあ、太宰よりも、ずいぶん歳をとったおじさんになったのでは、そんなふうに億劫になってしまうのもしかたのないことかもしれない。
ところで、今日は、行きと帰りの電車の中でチェーホフを読んだ。チェーホフは、たしかプーシキンと並んで、太宰の大好きな作家だった。多くのチェーホフの翻訳があるが、今日、読んだのは原卓也訳の福武文庫の「チェーホフ短編集」だ。
その中の「すぐり」という小説の中に、こんな言葉がある。
「満足しきっている幸福な人間一人ひとりの門口にだれかが小槌を手にして立って、この世に不幸な人々のいることや、どんなに彼が幸福であろうと、遅かれ早かれ人生が彼にも爪を見せて、病気とか貧困とか喪失とかいう災厄がふりかかえり、ちょうど今彼が他人のことなぞ見ききもしないのと同じように、だれ一人として彼のことを見てもきいてもくれなくなるのだということを、たえず小槌をたたいて思い起こさせてやることが、必要なんです。(以下続く)」
自分のブログも、まあ、だれ一人として読んでくれない日がたくさんあるのだが、そのことよりも、やはり、人間として自分がいてもいなくても、まったく他の人にとって、どうでもいいんだろうなと思うことはよくある。
別の言い方をすれば、自分が死んだときに、心から悲しんでくれる人や、自分のことを思い出してくれる人が、どれだけいるのだろうか、という気がするということだ。
今日は太宰の命日だが、太宰よりも歳を重ねてしまった自分は、前よりも客観的に太宰という人間を見ることができるようになった。太宰の生き方にちょっとした違和感は感じるが、それでも、どうしても太宰の命日なると、今日は太宰の命日だと思い出してしまうほど、今でも太宰に何か魅力を感じる。
ふと、もう、このまま、いろんな煩いごとを忘れて、死んだほうがいいのかもしれない思うが、まだ、太宰のように「ただ、一さいは過ぎてい行きます。」という境地に達していない自分は、もう少し貪欲に、地面をはいつくばうように生きていこうと思う。
2009年に出たアルバムの中の曲。もう、10年以上前の曲なのだが、最近、聴きはじめたので、とても新鮮に感じる。
YouTubeの再生回数は、とても少ないようだが、とても良い曲だ。
なんだか、いろいろと気疲れした時に聴くと、ほっとする歌だ。最後になぜか不思議な音が入っているのが、少し気になるが……。
関係のない話。
どうしても、嫌いな人にたまに会わなければならなくて、そういう時は、本当に人生を無駄にしていると思う。
少し会っただけでも、その人のマイナスオーラを敏感に感じてしまうので、できることなら、もう一生、二度と会いたくないと思うのだが、そうもいかない。
まあ、やっぱり無理矢理でも、会う機会をできるだけ減らすようにしてみるのが一番の解決策だと思う。
暗い話題ですみません。