なんと早、66回目の誕生日に思うー2  No.187 | ファッション視点から斜めに見る世間事情+オマケ付きブログ

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ファション業界で常に裏方として時代を切り開いて来た たかぎ こういち の独断と偏見+チョットお笑いブログ

 

そんな幸運だけで人生が続くはずはなかったのです。1992年に崩壊したバブル経済を何とか乗り越えつつ長男を37歳で授かりました。94年には次男を。幸せに酔った頃、夢にも思わなっ方1995年1月17日の早朝に阪神大震災。芦屋の自宅マンションは半壊、22戸の小さな分譲マンションでした。基本的に管理費も割高、被災調査費、修理費は管理組合での借入ローンで返済。ビジネスも大きな打撃を受けました。約2年間は眠るか働くか程の限界ギリギリの日々を送りました。しかし力及ばず。97年2月末に企業も私的にも法的精算。長男の小学校入学式のひと月前でした。人生が終わったと感じました、、、、ほんまに。

沢山の人に迷惑をかけた自分の非力に失意の毎日かと思いきや。

捨てる神あれば拾う神あり。従来からの香港取引先の友人からお声掛け頂きました。3月には香港に単身渡り日本とのビジネスを開発してゆきました。人間必死になれば何でもできるものです。日本人のいないビジネス環境ですから下手な英語もブラッシュアップされます、(笑)

破産手続き後たった2ケ月後に香港法人日本担当として香港貿易発展局主催の大阪、東京での展示会参加。知人たちに”ゴキブリ”と誉められました、(笑)その悔しさをバネに頑張れました。毎月家族に送金しますから本当の貧乏を楽しく経験。東京と香港を往復。幸運にも98年現フォリフォリジャパンとの合弁会社設立に至りました。選択肢がなかった事が逆に新しい可能性とキャリアを僕に運んでくれたのです。

僕が英語でビジネスできるようになった事、海外のビジネス経験は大きなスキル形成になりました。日本勤務主体になり家族のいる芦屋と東京との往復を夜間バスで毎週約2年間位続けました。その気力、体力をくれた両親に感謝です。業績が向上しバスは新幹線、飛行機へと、(笑)。その後は成功させたアニヤ・ハインドマーチの実績でヘッドハンティング頂き幾つかの仕事を並行して経験。オロビアンコの時計ビジネス、リモアのラグジュアリィ化と続きました。いつもゼロからの立ち上げの楽しさと遣り甲斐が僕には向いていたと思います。米国のファッション展示会の日本窓口業務や「東京ガールズコレクション」は業界全体の嘲笑の有ったなか大成功をお手伝い。早くにNETビジネスの将来を確信しました。マンハッタン・ポーテージは当初三井物産との協業でしたが先方の都合で直接取引となり順調に成長してゆきました。穏やかな人生が戻りました、が。(3に続く)

 

おまけ① 「冬の夜や おとろへうごく 天の川」 渡辺 水巴

おまけ② 「冬の夜や 懐まで冷める 年末や」

 

意外と長くなった66歳の誕生日話ですがロックなその3へと続きます。

変な星の下に生まれたようです、(笑)

 

ジェットコースターの様なロックな人生は続きます、笑。