多賀城の 進学教室 Study Gym 代表長山の自己紹介 | 多賀城の学習塾・公立校合格と成績アップ 進学教室Study Gym

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多賀城駅前で18年目を迎えた、小中学生を対象とした学習塾です。公立高校受験や日々の学習成績アップをベテランの専任講師が少人数グループ指導で徹底的にサポート・指導し実績をあげています。

こんにちは。生徒が望む人生を手に入れる能力UPの学習塾 Study Gymの長山です。

進学教室StudyGymは多賀城市、塩釜市などの公立中学校から公立高校への進学を目指す皆様を対象とする進学塾です。

北海道で生まれ、豊かな自然に恵まれた町で育ちました

北海道旭川市で生まれ、近郊の町で育ちました。


私は旭川の赤十字病院で生まれました。



そして、そこから車で1時間ほどの距離にある剣淵町で幼少期を過ごしました。

こちらが剣淵町の写真です。



父は病院勤務の薬剤師、母は専業主婦でした。

幼い頃、父と母は私に絵本やブロックなど知育玩具をたくさん買ってくれました。

その中で特にディズニーの絵本が大好きでした。

母はよく読み聞かせをしてくれていました。

そして、その本が大好きになったようで、それをボロボロになるまで、それを見ていました。

それで、早い時期にひらがな・カタカナが読めるようになったようです。

その後は、ボロボロになった絵本の代わりに、地図帳といろいろな図鑑が与えられました。

面白かったのでしょうか、これも食い入るように見ていたため、小学校入学以前に社会・理科の知識が頭に入っていました。

母の早期教育作戦が軌道に乗ったようです。

小学校入学直前に最北端の町に引っ越し、小・中学校の時期を過ごしました。


小学校に入学する前の年に、道北の豊富町に引っ越しました。



小学校に入学しても、早期教育のおかげ勉強には困りませんでした。

知ることの楽しさを早い時期につかむことができたので、勉強は楽しくできました。

今でも感謝しています。

中学時代は良いライバルにも恵まれ、田舎にいながらうまく学力を伸ばすことができ、第一志望校に合格しました。



田舎の秀才は進学校では普通の人でした。


函館ラサール高に進みました。



私は一人っ子で、甘やかされて育っていました。

中学時代のライバルが皆、生徒会の仕事をやり、家の仕事の手伝いもやりながら勉強していました。それでも私と勝ったり負けたり切磋琢磨していました。

私は彼らよりたくさんの時間勉強していたので、同じレベルにいられたのでした。


つまり、実力不足でした。


高校に入っても、中学時代同様野球部に入りました。


実力不足の人間が部活で時間と体力を削られるわけなので、勉強についてゆくことは、とても大変でした。


寮生活で鍛えられ、人を思いやる心叩き込まれました。



高校時代は寮に入っていました。

ラサール高校の寮は1年生の間は大部屋暮らしになります。

1部屋70人とか100人くらいの大部屋です。

そこに2段ベッドの1段と小さな衣装ケースが与えられます。


プライバシーはありません。

もめ事も日常茶飯事で、ストレスがたまります。

同期に中には、この状況に耐えられず、転校してしまったり、下宿に出るものもいました。

こういった環境なので、常に勉強や人間関係で沢山悩んでいました。

しかし、その中だからこそ、周りの人とうまくやってゆくための術を叩き込まれました。



テストの点数を取るのがうまいだけの人は早晩つぶれる。


良い成績を出す人は、ほぼ例外なく周囲との関係性が良い。

同期の中には、本当に頭がいいな、すごいなと思うものがたくさんいました。



だからと言って成功したかというと、必ずしもそうではありませんでした。

地頭がいいので、一時的に成果を出して、称賛されることがある。

しかし、それが長くは続かない。

生活していても楽しくなさそう。



気持ちにゆとりがないせいか、精神的に壁にぶつかると、いっぱいいっぱいになってしまい、それを超えられず、潰れてしまう。


そんなシーンがよくありました。

自分よりも、他人。困っている人がいたら躊躇せず助ける人が、最終的に頭角を現した。


成功したのは周りの人を助けたり、喜ばせることに一生懸命な人でした。


進学高の生活はとても大変です。勉強は厳しいし、部活もそれなりに強い。体力的にも、精神的にも本当に大変です。


だから、辛いことが重なったとき、一人だと本当に潰れてしまいそうになります。


そんな中で生きてゆくためには仲間の力が必要です。


苦しい時は励まし合ったり、勉強がわからなくなったら、分かる人が教えたり。


周りの力を上手に借りながら、みんなで支え合う。


それが上手くできるようになった人が成功して

いた。


そんな印象があります。

そんな素晴らしい同期や先輩後輩に囲まれて生活することで、小っちゃな自分が、思想的に大きな影響を受けたと思います。


人の幸せのために働く。それが自分の幸せに直結する。

3年間劣等生として過ごしてしまった自分が、高校時代に唯一学んだことかもしれません。

将来のことを何も考えずに入ってしまった大学。これが紆余曲折人生の始まりでした。


大学に入って、なんとなく過ごし、将来のことを考え始めたのは、3年生の時でした。

この時もお金より、人の役に立つ仕事に就きたいという気持ちは忘れてなく、久しぶりに真剣に考えました。

幸い教職課程の単位を取っていたので、ここから教員を目指し始めました。

一号館

しかし教員養成系の大学ではなく、準備期間も足りず勉強不足、一度目の採用試験は不合格になりました。

教職を目指して浪人し、生活のために塾講師のバイトを始めました。



その塾では良い生徒たちに囲まれ、やりがいを持って仕事ができました。

荒れていた生徒が、勉強面が立ち直ってゆくことで、生活も立ち直ってゆく。

ギリギリの学力だった生徒が努力して合格し、希望の所に進学してゆく。

塾教師として、そんなシーンに何度も立ち会いました。

そのうちに学校ではなく、塾の教師としてやってゆく方に気持ちは変わってゆきました。

大手塾で塾人として仕事の基本を学びました。


大手塾に転職。

そこで12年間働きました。

その間に約1500人の生徒の学習指導、受験指導を行いました。



6年目からは管理職に登用され、学習指導のみだけでなく、本部運営全般にも関わるようになりました。

この大手塾での経験と実績が、現在の運営や指導方法の基盤となっています。

自分の塾を開く


学習塾の管理職の仕事は、講師の採用、育成、および組織を維持して動かして行くための様々な事務作業が多く、どうしても現場に出る時間が減ります。

その中で発生する種々の問題に対応するため奔走する日々。

『これが自分のやりたかった仕事か?』

そんな疑問が大きくなってゆきました。

また大手塾が組織を維持してゆくためには、講師の育成は欠かせません。

どうしても、何割かは未熟な講師を実践の中に投入しなければなりません。

最強メンバーだけでチームを組んで、クラスを運営することは許されないのです。

『大手が出せるサービスの質には限界がある。』

『努力する生徒がその希望を確実に実現できる、力のある塾を作りたい。』

そういう思いが強くなっていきました。


両親への恩返し、実家のある宮城へ


私は高校に入学して寮に入りました。

それ以来ずっと親元を離れ、一人で暮らしていました。

定年退職した父は、自分の出身地である宮城県に家を建て、暮らしていました。

陸奥

いまから10年以上前となります。

年齢が進むにつれ、助けが必要となってきている両親。

その両親への恩返し、

「小さくてもいいから、大手にはできないハイクオリティなサービスを提供する塾を作りたい」

この二つの想いから、大手塾の退職を決意し、宮城県へ移住しました。

そして当地においてStudyGymを開設しました。

創業時から更なる紆余曲折を経て、現在に至ります。



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