ABとが喧嘩をした。Cなる友達が仲裁を買って出た。二人になったときAから「君はどっちが正しいと思うか」と聞かれた。どっちもどっちだと思ったが、二人とも激しているので、つい「そりゃ君の方がいい」。一方BCに聞いた。「君はどっちがいいと思うか」。もしA君の方が正などと言おうものなら、より悪い状態で決裂するだろうと思ったCは、「そりゃ君の方が正しい」。ABも満足したが、二人を前にしてどちらが正しいとはいえない。別だからうまく言っただけだ。バレればウソをついたことになる。「君はどっちの見方なんだ」と責められる。こうなると自分が立場を失う。

はてなマーク上のことをことわざで表すとどうなりますか。

A あちら立てれば、こちらたたず

B 喧嘩両成敗

C 無理が通れば道理が引っ込む

D 逃げるが勝ち

千野栄一『外国語上達法』より

現在日本が置かれている状況の中では、もし外国語を一つ選べといわれれば英語を選ぶのがもっとも適切といえよう。これは英語を何の目的もなしに学習させられ、その成果が上がっていないというのとは全て別の話である。そもそも外国語習得の問題点の一つは、その外国語を必要とするかどうか分かっていない時点でその外国語の選択をすることにある。これは外国語の習得に一定の時間がかかるからで、「さあX語が必要になりました」といわれても、すぐには間に合わないからである。もし絶対に一生英語を使わないことが分かっていれば英語を勉強する必要は全くないが、思いがけず外国、それもイギリスやアメリカとは限らず、英語ならどうにか通ずる国へ行くことになったり、会社に英語の手紙が来たりすると、突然英語が必要になるのである。

はてなマーク本文の内容と合っていないものはどれですか。

A 外国語を一つ選べといわれれば、その実用性から英語を選ぶのが理にかなっている。

B いざ外国語が必要だという時を見込んで、外国語を身につけておくことにこしたことはない。

C 英語を勉強しても、一生使わないかもしれないのにわれわれはずいぶんむだな骨を折っていることになる。

D もしイギリスやアメリカへ行くことになった場合、英語を身につけておいてよかったと思うだろう。

J.V.ネワストプニー『外国人とのコミュニケーション』より

こういう笑い話がある。

第二次大戦中に他国に占領されたヨーロッパ大陸のある国からイギリスに亡命した青年がイギリスの娘と仲良くなって、ある日、彼女の母親に紹介された。翌日女の子は彼にこういった。「お母さんは、よさそうな人だけど外国人でさえなければね、ですって」。すると、青年は笑い出して、「何だって、ぼくが外国人だって?あなたたちこそ外国人じゃないか」と言った、とのこと。

はてなマークこの話どこがおもしろいですか。

A イギリスでは「外国人」ということばの中に皮肉的意味が含まれているため。

B 一方から他方を見れば外国人であっても、また見方を変えればその一方も外国人になるから。

C イギリス人は通常外国人とは男女の交際をしないことになっているから。

D この青年はすでにイギリス国籍を取得しているのに外国人扱いされたから。

 茶の湯について語るとき、わたくしはしばしば次のような質問から始める。

 お茶はどんな飲み方をしてもよいであろうに、あなた方はどうしてわざわざあのような作法で飲むのであるか、と。この場合の「あなた方は」は、むろん「(①)は」と置き換えてもよい。おそらくこの種の質問は、茶の湯に無理解というより、むしろある程度の関心を持つ日本人ならひとしく抱く、共通する疑問に支えられていると思う。

 

 のような作法――亭主と客人との双方に求められるある種の礼儀作法――をここでかりに「茶礼」とよぶなら、それに対して多少とも心理的な抵抗が働くのは、茶礼に求められる作為性とか虚構性のせいではなかろうか。緑茶、紅茶を問わず外国にも茶を飲む上でのルールやエチケットはあっても、茶室.茶庭その他の装置、道具立てまでするのはわが国だけのものであろう。その意味で茶の湯は、もっとも日本的な文化現象であり、形式であると思われる。

 

 茶の湯の虚構性ということについて、もう少し考えておきたい。茶の湯が喫茶というきわめて日常的な行為を虚構化したところに成立する、ということは、その行為を日常性の次元に戻した時には成立の根拠を失うことを意味している。いいかえれば、どんな飲み方をしてもよいであろうに、という主張――日常性の論理――が罷り通ったら、その時点で茶の湯はたちまち茶の湯でなくなってしまうということである。茶礼は最小限度の枠組みなのである。茶の湯は、日常性と虚構性のはざまにこそ存在する文化形式である、といえると思う。そのことを岡倉天心も「茶の本」(THE BOOK OF TEA)のなかでこう述べている。「茶道とは日常生活の俗事のなかに見出される美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式である」と。簡にして要を得た定義づけであったといえる。

 

 そしてわたくしは、茶の湯がもつこのような構造や特質に示される文化を「生活文化」と呼ぶことにしたい。つまりここでいう生活文化とは、衣食住など生活上の利便が時代とともに増してくるといった意味ではなく、そうした日常生活を虚構化しそれを楽しむ傾向のことをいう。


サーチひとしい:全体的に一様であるさま。どれも同じであるさま。

サーチ作為性:わざと行ったさま。

サーチ虚構性:事実でないことを事実らしく作り上げること。

サーチエチケット:礼儀作法。

サーチ道具立て:必要とする道具を取り揃えておくこと。また、その道具。

サーチ罷り通る:「通る」を強調して言う。堂々と通る。

サーチはざま:物と物とも間の狭くなったところ。あいだ。


はてなマーク1

( ① )と置き換えてもよい言葉を文章の中から選びなさい。

1.私たち  2.日本人たち  3.お茶を飲む人たち  4.お客たち


はてなマーク2

「一種の儀式である」の「儀式」の持つ性格として重要なものの組み合わせとして、最も適当なものを選びなさい。

1.日常性と虚構性  2.作為性と虚構性  3.文化性と日常性  4.作為性と文化性


はてなマーク3

この文章では「茶の湯」がどんなものか、次の中から最も適切なものを一つ選びなさい。

1.紅茶やコーヒーを飲むような日常的な習慣である。

2.絵画や彫刻のような非日常的な芸術である。

3.喫茶という日常的な営みに、形式的な儀礼を取り入れたものである。

4.茶室、茶庭などをつくる造形芸術である。


はてなマーク4

生活文化」の具体例として次の中から最も適切なものを選びなさい。

1.店がたくさんでき、どこでもコーヒーなどを飲みながらサロン的雰囲気の中で社交的世界を広げること。

2.インスタント食品のようにすぐ作れる手軽な食べ物ができ、文化的生活を楽しむ余裕ができること。

3.冷房や暖房機器が発達し、夏も冬も快適に暮らし、自然的季節を超越した生活をすること。

4.京料理のように素材の味や色を生かし、また、それにふさわしい器を用意して季節感を出したりすること。



パーマン今回の文章がちょっと長いですけど、小堀先生の解答方法で実験してみましょう。皆さん、頑張ってくださいね。( ´艸`)

 衣食住、この三つが生活の根本だとすると、私は三つともに不自由な時代に育てきた。それで、その当時、生活なんかしていなかったかというと、必ずしもそうでない。むしろ不如意な生活というものが濃密にあって、日のすぎゆきがのったりとおそかった。

 近頃のようにものが満ちたりていると、( )。私の体質は不自由に即応してできあがっていて、なんにもなくてもとっこだという気持ちがどうしても消えない。


はてなマーク( )の中に入れるとおかしいものがどれですか。

A.どうも私などは生活しているという実感がわかない。

B.どうも私などは生活が満ちたりていると思えない。

C.どうも私などは居心地がよくない。

D.どうも私などは落ち着かない。



渡辺文雄『渡辺文雄の旅から旅へ』による



 十年以上も月一ぺん以上の旅をしていると、その記憶は、かなり混乱してくる。鮮烈な出会いはくっきりと覚えていても、さて、場所がどこだったか思い出せない。

 老いの兆しだと言う声も聞こえるが、とにかく困ったことである。

 とにかく、このだらだらとした旅の記憶には、句読点が必要であると、ある時思った。

 そしてその時、かなりいい事を思いついた。

 一回旅に出たら、必ず一つ野の花の名前を覚えてくる事を私と課したのである。

 この事で、私のたびの記憶がすっかり整理出来たということは、あまりなかったが、しかし、旅そのものがもう一つ味つけされた事は確かである。


はてなマーク句読点が必要であるとはどういう意味ですか。

A. 旅から旅に出る間隔をあける必要がある。

B. 十分計画を練ってから出かける必要がある。

C. そろそろ旅にピリオドを打つ必要がある。

D. 一つの旅ごとにまとめをつける必要がある。


…郭さんが短い読解を二篇選びました。今回のは少し難しいと思いませんか(笑)。びっくり