茶の湯について語るとき、わたくしはしばしば次のような質問から始める。
お茶はどんな飲み方をしてもよいであろうに、あなた方はどうしてわざわざあのような作法で飲むのであるか、と。この場合の「あなた方は」は、むろん「(①)は」と置き換えてもよい。おそらくこの種の質問は、茶の湯に無理解というより、むしろある程度の関心を持つ日本人ならひとしく抱く、共通する疑問に支えられていると思う。
のような作法――亭主と客人との双方に求められるある種の礼儀作法――をここでかりに「茶礼」とよぶなら、それに対して多少とも心理的な抵抗が働くのは、茶礼に求められる作為性とか虚構性のせいではなかろうか。緑茶、紅茶を問わず外国にも茶を飲む上でのルールやエチケットはあっても、茶室.茶庭その他の装置、道具立てまでするのはわが国だけのものであろう。その意味で茶の湯は、もっとも日本的な文化現象であり、形式であると思われる。
茶の湯の虚構性ということについて、もう少し考えておきたい。茶の湯が喫茶というきわめて日常的な行為を虚構化したところに成立する、ということは、その行為を日常性の次元に戻した時には成立の根拠を失うことを意味している。いいかえれば、どんな飲み方をしてもよいであろうに、という主張――日常性の論理――が罷り通ったら、その時点で茶の湯はたちまち茶の湯でなくなってしまうということである。茶礼は最小限度の枠組みなのである。茶の湯は、日常性と虚構性のはざまにこそ存在する文化形式である、といえると思う。そのことを岡倉天心も「茶の本」(THE BOOK OF TEA)のなかでこう述べている。「茶道とは日常生活の俗事のなかに見出される美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式である」と。簡にして要を得た定義づけであったといえる。
そしてわたくしは、茶の湯がもつこのような構造や特質に示される文化を「生活文化」と呼ぶことにしたい。つまりここでいう生活文化とは、衣食住など生活上の利便が時代とともに増してくるといった意味ではなく、そうした日常生活を虚構化しそれを楽しむ傾向のことをいう。
ひとしい:全体的に一様であるさま。どれも同じであるさま。
作為性:わざと行ったさま。
虚構性:事実でないことを事実らしく作り上げること。
エチケット:礼儀作法。
道具立て:必要とする道具を取り揃えておくこと。また、その道具。
罷り通る:「通る」を強調して言う。堂々と通る。
はざま:物と物とも間の狭くなったところ。あいだ。
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( ① )と置き換えてもよい言葉を文章の中から選びなさい。
1.私たち 2.日本人たち 3.お茶を飲む人たち 4.お客たち
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「一種の儀式である」の「儀式」の持つ性格として重要なものの組み合わせとして、最も適当なものを選びなさい。
1.日常性と虚構性 2.作為性と虚構性 3.文化性と日常性 4.作為性と文化性
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この文章では「茶の湯」がどんなものか、次の中から最も適切なものを一つ選びなさい。
1.紅茶やコーヒーを飲むような日常的な習慣である。
2.絵画や彫刻のような非日常的な芸術である。
3.喫茶という日常的な営みに、形式的な儀礼を取り入れたものである。
4.茶室、茶庭などをつくる造形芸術である。
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「生活文化」の具体例として次の中から最も適切なものを選びなさい。
1.店がたくさんでき、どこでもコーヒーなどを飲みながらサロン的雰囲気の中で社交的世界を広げること。
2.インスタント食品のようにすぐ作れる手軽な食べ物ができ、文化的生活を楽しむ余裕ができること。
3.冷房や暖房機器が発達し、夏も冬も快適に暮らし、自然的季節を超越した生活をすること。
4.京料理のように素材の味や色を生かし、また、それにふさわしい器を用意して季節感を出したりすること。
今回の文章がちょっと長いですけど、小堀先生の解答方法で実験してみましょう。皆さん、頑張ってくださいね。( ´艸`)