Masahiro Yamazakiのブログ -134ページ目

覇王の家(下)

戦国という荒々しい時代に「天下統一」を成し遂げるには、何らかの英雄性がなければならない気がします。


織田信長には独裁者としての天才的な発明の才がありましたし、豊臣秀吉には周囲を感服させる並はずれた度量がありました。両人の共通点は、自分の才を信じそれを強力に押し出したことで、それこそが英雄性だと思います。


しかし、本書の主人公である徳川家康にはそれがなく、それでいて天下を平らげ、死後200年以上も通用する制度をつくってしまいました。


家康は常に自分の才能を信じませんでした。才能というものを徹底的に否定し、兵制や統治法は敵であった武田信玄のやり方をそっくり真似ます。独創や発明といったものは身を滅ぼすと考えますが、そうした思想が江戸幕府という自己保存に異常な執着を持つ政府をつくり上げる基になりました。


飛びぬけた天才性とは、飛びぬけた異常性と同義の場合が多い気がします。

家康の天才性というか異常性は、自分を管理し抜いたことにあると思います。


自分の精神を一歩離れた虚空に置くことで、才も能もない自分自身を冷静に見下ろし続けます。

私たちが考える客観性という観念を限界まで推し進めたのが、徳川家康だと思います。

彼は自分の欲望すら管理の対象に入れ、誰よりも冷静に状況を見極め、徳川家康という人物を演じ続けます。


代表的な例として、部下の陰謀により妻子を殺さざるを得なくなるという、家康の生涯で最も苦しい出来事がありました。しかし、その部下を処罰することで徳川家の家中が乱れることが予想できたため、ついに部下を処罰することはなく、その時には恨みごとさえ口にしませんでした(20年後、一度だけ恨みごとを口にしたと言われています。)

自分の感情を管理下に置くという離れわざも、ここまでくると異常だと感じます。


家康は、自分の跡継ぎが無能であると感じていたため、死ぬ間際まで徳川家保存のための制度を考え抜き、あらゆる手を打ちつくしました。


日本の歴史だけではなく、日本人のDNAにも、今なお家康の異常性は生き続けていると思います。


教育の職業的意義

「学校で勉強したことは、社会に出てからは役に立たない」という意見がある一方で、「学校の勉強は、内容そのものよりも、学びの方法や努力の大切さを知るために必要なものだ」という意見もあります。

どちらも真実であるため、この議論がやむことはありません。


本書では、日本の教育が長い間「社会に出てから役に立たない勉強」をしてきたことを批判し、「将来役に立つ勉強」を普通中等教育(総合高校)に取り入れていくべきとしています。そうしたシステムが個人能力発揮の最大化につながり、会社単位ではなく、職種単位で就職できる社会をつくっていくべきだとしています。


ある職業の立場に立つと、他の職業についても興味が湧き、理解が深まります。

自分は新卒で海運会社に就職しましたが、それによって、物流、エネルギー、素材、輸出機械製品、輸入農産物、中古市場、保険、法律、造船などなど、多くのことに関心が持てました。大学時代には興味がなかったことばかりです。


なりたい職業がはっきりしていない高校生に対しても、とりあえず何らかの職業的立場に立たせることで、社会の成り立ちやあらゆる業種について学べる機会が得られます。途中で業種への関心は変わるかもしれませんが、それを柔軟に受け入れられるカリキュラムさえ整えば、より自分に適した仕事を知ることができます。


勉強とは、ある技術や知識を習得するための道具です。しかし、精神性向上という、崇高ではあるけれど抽象的な要素を混ぜてしまうことで、目的があやふやになってしまいます。


普通高校はもっと職業的教育に力を入れるべきだと唱えると、「普通教育はもっと大きな視野に立つべきだ」という声が起こりますが、視野という点で見れば、現実に高校でやっていることの方が狭い気もします。


本書では多くのページを割いて、日本的雇用慣習や企業の考え方を批判し、代替案を提案しています。


納得のいく就職を増やすためには、本書の提言は非常に大切であると思います。









覇王の家(上)

徳川家康を描いた、司馬遼太郎の小説です。

これを読むことで、江戸幕府をつくった徳川家の家風が非常によく分かります。


江戸時代というと、遠い昔という印象が先行します。

しかし、現代日本人の精神性にとって、江戸時代ほど影響が大きかった時代はないと思います。


三河(愛知県東部)から勃興した徳川家は、三河気質とも呼ばれる独特な精神性を持っていましたが、彼らが日本を260年にわたって支配することで、この気質がそのまま日本全体の国民性となりました。


浪費より倹約、理屈よりも情宜、自由よりも規則、先進性よりも保守性、人海戦術よりも少数精鋭、商業より農業、冒険よりも慎重などといったものが代表的です。


不思議なことに、お隣の尾張(愛知県西部)からおこった織田家の家風は、三河とは正反対で、豪華で贅沢なものを好みましたし、能力主義や外国文化の積極的摂取、商業経済の振興など、全てが違っていました。


社会の教科書では、安土・桃山時代(信長・秀吉の時代)は、戦国大名や大商人の気質を表す豪華絢爛な文化とされていますが、これはすなわち尾張の文化であったとも言えます。


もしも江戸時代が徳川家のものではなく、織田家・豊臣家のものであったなら、現代の日本も大きく異なっていたと思います。


個人にとって人間性を変えるような出会いがあるように、国家にとっても国民性を形作る要因があるということを、この作品からは強く感じることができます。







馬上少年過ぐ

司馬遼太郎の短編集です。


「城の怪」という編では、関ヶ原の戦い直後の大坂の町の様子が描かれています。

かつては多くの家来を召し抱えていた武士が、戦いに負けたためにみじめな暮らしに甘んじている様子が、生き生きとに描かれています。


歴史小説の面白さは、どんなにみじめな境遇にある人々であっても、どこかユーモアを持って受け止められることだと思います。これが現在のことになってしまうと、生々し過ぎてユーモアを感じることはできません。


昨日まで権勢をふるっていた人が今日は乞食になり、昨日まで冷や飯を食べていた人が今日は一城の主となる。そんな時、人間が何を感じ、どのように振る舞うのかを見るにつけ、人間とはという問いにつきあたります。


司馬遼太郎の小説の面白さは、「人間とは何か」という壮大な問いについて、人間臭いささいな出来事から考えさせてくれるところにあると思います。


「城の怪」では、我が身を立てるべく関東から出てきた腕利きの武士が、危険な綱渡りによって出世を目指すのですが、共謀者の裏切りによって殺されてしまいます。そこには、欲は身を滅ぼすなどといった教訓めいた感じはなく、ただ単に一人の屈強な武士が時代の流れの前には犬ころのように死んでしまうという事実が淡々と書かれているだけです。




コンビニと山田ストア

先日、自転車で自宅(さいたま市)から高崎市(群馬県)まで走りました。

今更ながら、コンビニの素晴らしさを実感しました。


食べ物を買うだけではなく、トイレを借りたり、地図を立ち読みしたりしましたが、これがもし個人商店だったら、コンビニほど気軽に利用できないと思います。


コンビニは品揃えという利便性だけではなく、精神的な利便性もあると思います。見知らぬ土地に行くと、このありがたみが非常によく分かります。


後日、とある田舎にある「山田ストア」という個人商店で買い物をしました。見たこともないパッケージのクッキー(確か「おっかさんのクッキー」という名前)やら、あやしいチョコパン(40円)が売られていました。全ての商品に指で文字が書けるくらいホコリが積もっていて、骨董品を見つけたような楽しさがありました。


お店にはおばさんとおばあさんがいましたが、「なめ茸」のおいしさについて2人で盛り上がっていました。

やたらお腹がすいていたのであやしいパンを2個買ってみると、カッチカチでびっくりしました。


外観を普通のコンビニにして品揃えを山田ストアみたいにすれば、下北沢あたりで話題を呼ぶかもしれません。。