長い付き合いの大切さ
良く分からないもの、ぱっと見はつまらなそうなものであっても、長く付き合ってみると、想像していたものとはまったく違った面白さや素晴らしさ、奥深さを教えてくれることがあります。
最初は良くわからなかったけど、気がついたらこんなことが学べていた、というのが、学びの本来の姿のような気がします。その意味で、学ぶきっかけに大した理由は必要無いと思います。何を学べるのかが分からないというのが、学びの最大の特徴である以上、事前の予想などは星占いのようなものだと思います。
学校での人間関係や勉強から学ぶことは、実に千差万別です。勉強を「将来の役に立った」と言う人もいれば、「何の役にも立たなかった」と言う人もいます。しかし、勉強に対してある種の感想を持ち得るためには、ある程度長く、深く付き合う必要があります。
社会に出た後で、ふと学生時代の自分を振り返った時に、「勉強(学校)って、自分にとって○○だったなぁ」という感想を持った時、初めて学校や勉強の意義を感じることになります。逆にいえば、ある程度の時間が経つまでは、学校や勉強が自分にとってどんな役割を果たすのかは、よく分からないままだと思います。
受験や偏差値というものは、事務能力や情報処理能力、忍耐力や継続性・能動性という能力を育成するだけではなく、学校や勉強により深く関わらせるためという存在意義もあると思います。
友達と点数を競い合って興奮したこと、塾の帰りに夜遅くまでおしゃべりをしたこと、計画が3日坊主で終わり情けなく思ったこと、いくら頑張っても勝てない人がいること、突然成績が伸びる人がいて驚いたこと。こういったものは、受験があるからこそ得られる経験です。勉強に対して能動的に取り組む過程で、これらの経験はくっついてきますが、受験がなければ、ここまで真剣に取り組むことは無いと思います。
勉強に限らず、スポーツでも、仕事でも、長年まじめに付き合ってきたものからは、数え切れない学びが発生します。長い間付き合っていれば、倦怠感や閉塞感に襲われることもあります。しかし、そうした空気の中でしか、何とか工夫を凝らして状況を変えようとしたり、あきらめて後悔したり、挫折感を味わったりすることはできませんから、何かを長く続けることには大きな教育的意義があると思います。
子供たちが勉強から何を学び取るのかは大人だって断言することはできません。しかし、長い付き合いだからこそ何かを学べることは確かであり、学びの質を高めるには、能動的である方がいい、ということは言えると思います。そうであるならば、より積極的に学びに向かうように、様々な仕掛けをつくることが大人の役割だと思います。それが一番難しいのですが・・・。
カツ丼やカレー南蛮
「美味しんぼ」の中で、杓子定規を絵に描いたような大学生アルバイトが登場します。そのバイトは全く融通がきかないため、周囲の人はそんな彼にかなり手を焼きます。
そんな彼を、山岡さん(主人公)は定食屋に連れていき、カツ丼とカレー南蛮を食べさせます。そしてこんなことを言います。
「このカツ丼を見てみろよ。トンカツ自体がそもそも大変な発明だ。西洋のカツレツと日本の天ぷらの技法を合わせて、豚肉を揚げてしまった。しかもそのトンカツをしょうゆ味のダシで煮込み、卵でとじて飯の上にのせてしまった。さらにこのカレー南蛮。日本の伝統食品であるカケソバに、カレーをぶちこんでしまった。じつに大胆というか、恐れを知らぬというか。なんと自由な魂の持ち主だったかね、このカレー南蛮を発明した人間は。」
こういう具合に大学生を教育し、彼の考え方も少しずつ変化していきます。
「美味しんぼ」の秀逸な点は、料理を通して、日常的な学びを与えてくれることだと思います。料理を通すことによって、小うるさいお説教も、すんなりと聞き入れられるようになります。
登場人物のア クの強さも面白いですが、作者の食べ物に対する愛情には、常人離れしたところがあると思います。そして、読んでいるとお腹が減って困ります。
「自分の信じる道」について
私たちは日々様々な判断に迫られるが、判断には「何をしたいか」と、「何をすべきか」の2つがある。
「何をしたいか」というのは、本能的な問いであり、楽しさや気持ちよさなど、身体感覚に依拠している。一方で、「何をすべきか」については、身体感覚に依拠せず、場合によっては身体的快楽とは逆の選択をせざるを得ない。
「何をすべきか」という問いに当たった時、最終的には「自分の信じる道を進む」ことが最良の選択であると、多くの場面で語られる。しかし、「自分の信じる道」が最良の選択として適格になるには、その道を信じる「自分」が正しくないといけない。
「自分の信じる道を進むこと」が最良だという判断作法には、「自分こそが正しい判断を為しうる存在だ」という信憑を伴う。あるいは、その判断が間違っていたとしても、そのツケを払うのは将来の自分であるから、最高責任者たる自分の意見を最重要視するべきだという根拠を伴う。
しかしながら、以上の判断をするためには、ある程度の社会経験を積み、仮に失敗した時の経済的、道義的責任を自分で取れる人間でなければならない。
にもかかわらず、個性を大事にするという大義名分のもとで、「自分の信じる道を進むこと」をむやみに奨励する社会に違和感を覚える。特に、社会経験が絶対的に少ない子供にそのような思想を植え付けることは、子供が「オレ様化」する大きな原因の一つであると思う。
自己肥大した子供というのは、社会を斜めから見下ろし、大人の正論に溜め息をつくという作法を身に付ける。社会的承認よりも、自己の唯一無二性をひたすらに信じ続ける。それが学級崩壊や学力低下、フリーターやニートやコミュニケーション能力低下といった問題につながっているのだと思う。
自己肥大と素直さは対極にある。
自己肥大は周囲に満ちたあらゆる教育的チャンスをシャットアウトする。自分に都合の良いことや、自分を称賛してくれる人の言葉以外には耳を傾けなくなっていく。その結果、排他的で独裁的な個性が完成する。
幸福な個性は、努力によって磨かれる。その意味で、勉強は研ぎ石の役割を果たす。努力の機会が失われるような個性の尊重の仕方は、社会や本人を不幸にすると思う。子供に携わる大人は、このことを肝に銘じるべきだと思う。
i-Phoneが濡れた ~その後~
濡れてバカになっていたi-Phoneですが、見事に復活しました!
ジップロック&乾燥剤の威力にビックリです。
のりの袋から誘拐してきた乾燥剤は、大役を果たし、無事に帰っていきました。
今までその存在をほとんど無視していた乾燥剤ですが、これからはもっと温かい目で見てあげようと思います。
無理しよう
本気の仕事というものには、50%くらいの無理が生じます。
その無理を踏まなければ、望む果実は得られません。
無理のない趣味、無理のない仕事、無理のない計画、無理のない人生。
無理をしなくて済むというのは、現状の能力で十分達成可能だということです。
無理が無ければ、限界値も、価値観も、人間性も変わりません。
無理をしなければ、自分も、他人も、組織も、社会も変えられません。
僕が尊敬する人は、みんなどこかで無理をしています。
無理をする人の存在は、自分を奮い立たせ、より大きな仕事へ立ち向かう勇気をくれます。無理をする人は、存在そのものが教育的です。彼らの存在は、無理をしない自分を無言のうちに糾弾します。
言葉による糾弾に対しては、誰だって反論します。
しかし、無言の糾弾には反論することができません。なぜなら、反論した時点で、無言の糾弾の存在を認めることになるからです。
無言の糾弾を自分への圧力として認める時、同時に自尊心を傷つけられることになります。なぜなら、自分はその人よりも「無理のない人生」を送っていることを認め、そのことに引け目を感じるからです。そうした実感がなければ、無理をする人の存在を、圧力としては認識できません。
夢や理想を本気で叶えたいのであれば、無理は必要不可欠です。
無理を必要としないものは、夢や理想と呼ぶべきではないと思います。