うさカメ版童話「カチカチ山のタヌキ」

 

森のストリップ劇場にタヌキがやってきた。

  タヌキは、いかにもお金持ちだという格好で、腕に高級時計とブレスレットを付け、指には高価な宝石の指輪もしていました。黒縁のメガネをかけ、太い葉巻を咥えていました。

彼はどっかりとかぶりの席に座ってステージを眺めました。そして気に入った踊り子がいると分厚い財布からお金を抜き出し、「チップをやるぞ!」と叫んでお金を思いっきり宙にばらまきます。踊り子たちはキャーキャー言いながらお金を拾いました。彼はそれを見て満足そうに頷きました。

 ある日、タヌキはうさぎちゃんのことを一目で気に入りました。

 カメは事前にタヌキの噂を聞いていました。だから、うさぎちゃんにタヌキの相手をしないようにアドバイスしていました。

 タヌキはなんとかして、うさぎちゃんに気に入られようと、毎日やってきては、うさぎちゃんにプレゼントをしたりチップをあげたりしていました。しかし、うさぎちゃんはカメさんの助言に従ってお金には目もくれません。

 カメは、あのチップはタヌキのまやかしで、木の葉をお金に見せかけているのではないかと疑っていました。とにかく、あのタヌキは胡散臭いのです。

 

 ある日のこと、劇場に新しい新人が入ってきました。タヌキの顔をしていました。

 厚い化粧をして、豪華な衣装を着ていました。衣装は裾広がりで、ウエディングドレスのようなふわふわのフリルの付いたロングトレーンの(裾長の)ドレスでした。

 カメは、あのタヌキが女性の踊り子に化けて、うさぎちゃんに近づこうとしているのだと気付きました。

 そこでカメは、タヌキが踊っている時、着ているドレスの裾でステージからはみ出したところに、火打石で火を付けようとしました。

 カチカチと音が鳴りました。

 その音にタヌキは後ろを振り向きました。

 それに対して、カメは「このへんはカチカチ山ですから、カチカチ鳥が鳴いているんでしょうね。」と答えました。

 またタヌキが踊り出します。

 ドレスの裾に火が付き、瞬く間にドレスに燃え広がりました。

 タヌキは背中に大やけどをして逃げていきました。

 その後には、チップとして配った木の葉が落ちていました。とさ

 

平成29年10月                

 

【付録】

ここで、私の自論「ストリップ愛」について述べたい。

ことストリップを楽しんでいる踊り子も客も皆、ストリップを愛しているのだと思う。しかし、愛し方が人それぞれ違っている。

たとえば、客のAさんは一人の踊り子をとことん好きになった。Aさんはその踊り子を追いかけて夢中で応援している。一方、客のBさんは沢山の好きな踊り子がいて、新人がデビューすると喜んで観に行く。AさんとBさんはスト仲間で、よく飲みに行く。酔った勢いで、一穴主義ならぬAさんは、Bさんのことを「おまえのやり方は邪道だ」と非難する。Bさんはそれを真に受けず、ただ笑っているだけ。いつしか、Aさんの好きな踊り子が引退すると、Aさんもストリップを引退して二度と劇場に来なくなった。一方のBさんはいつまでもストリップを楽しみ劇場通いを続けている。

極端な二つの例をあげたが、ストリップ業界として大事なのはBさんのタイプだろう。

観客はストリップを楽しむために、まずは目の前のステージに立つ踊り子を好きになることから始める。Aさんは一人の踊り子のみを好きになった。他の踊り子には興味がない。だから、お目当ての踊り子がいなくなればストリップそのものに関心が向かなくなる。一方、Bさんは今見ているステージの踊り子を気に入って楽しむが、他の踊り子も同じように楽しむ。Bさんは目の前の踊り子を好きになって楽しんでいるが、踊り子の向こう側にあるストリップそのものを楽しんでいる。だから、どんなに踊り子が変わってもストリップを楽しむことに変わりない。ストリップというのは常に踊り子の入れ替えが発生する。そうしたストリップの特質をBさんは理解してストリップを楽しんでいる。

 

次に、踊り子と客の関係について。

ストリップを楽しむためには、踊り子と客の間には適度な距離感が必要である。

Aさんは一人の踊り子を好きになっているので、本音は結婚してもいいとまで思っているだろう。彼には適度な距離感なんてなにもない。現実には踊り子は客を結婚相手としては見てくれないもの。だからAさんは途中で熱が冷めるかもしれないし、最後まで応援していたとしても、彼女の引退とともにさようなら!となる。そして、Aさんは二度と劇場に来ない。

一方、Bさんは沢山の踊り子を相手にするだけあって、適度な距離感を心得て、ストリップを楽しんでいる。踊り子さんも熱心に応援してくれるのは嬉しいが、度を超すと相手がうざく思うもの。Bさんは常に踊り子との適度な距離感をわきまえている。

 

最後に、踊り子と客の感情について。

一般に、踊り子と客が恋愛に発展して結婚するケースは殆どない。なぜなら、踊り子は人前で裸になる商売柄、まさに体を張った気の強い女性ばかり。また気が強くなければ踊り子は務まらない。一方、客の男性はふつうに女に相手にされない気の弱い男ばかり。こうした男女が結びついてもうまくいくはずがない。

しかし、踊り子と客はやはり男と女なので、そこに恋愛感情が発生してもおかしくはない。恋愛感情とまで言わなくても、単に好き嫌いという中で、相手に好感をもったり、時に不快感をもったりする。

それを今回のテーマ「愛と憎」に当てはめて考えてみよう。

 

お客というのも気まぐれなもので、これまである一人の踊り子を夢中になって応援していたのが、踊り子のちょっとした言動や周りの状況(他に可愛い踊り子がデビューした等)で急に嫌になってしまうことがよくある。この「愛と憎」こそが、おそらくストリップを楽しむ上での問題の、かなりな部分を占めるだろう。

一例を考えてみよう。彼はある踊り子Xさんを夢中で応援していたのに、ある日突然に手の平を返すように嫌われ、更に踊り子出禁にまでされたというケース。これまで応援に沢山の時間を費やし、遠征やプレゼント等で沢山のお金を費やしてきた。この苦労が一瞬にして水泡となる。彼はXさんに対して「可愛さ余って憎さ百倍」という気持ちになるだろう。この気持ちを彼はどう癒すだろうか?

彼に非があれば、いずれ時間とともに自分の非に気づくだろう。例えば夢中で追いかけていたがそれはストーカー的な応援ではなかったか。踊り子Xさんにうざいと思われなかったか。熱心な追いかけとストーカーは紙一重なところがあるからね。時間を置いて冷静になれば相手の気持ちもわかってくるもの。

ところが彼に全く非がないとする。誰が見ても、Xさんの気まぐれであり、皆が彼に同情する。そんな場合、彼は救われないだろうな。彼はどうすればいいか?

それを考える上で、太宰治の『お伽草紙』の中にある「カチカチ山」という面白い話を紹介する。ご存知「カチカチ山のタヌキ」という童話は、ウサギがおばあさんの敵討ちに、タヌキを泥船に乗せて殺してしまうという物語。その話をベースにして、太宰は、ウサギを十六歳の冷酷な美少女に、タヌキを愚鈍な中年男という設定にした。中年男は、その美少女に惚れ、どうにか気を引こうと全身全霊で尽くす。しかし最後は泥船に乗せられ殺される。「恋は盲目」とは言うが、彼は滑稽そのもの。

では、太宰はこの話で何が言いたかったのか。「恋する諸君、気を付けたまえ!」と言いたかったのか。いや「恋は盲目」だからこそ素晴らしいのだと反論したくもなる。先ほどの彼のケースを考えれば、身につまされるストリップ客もいるだろう。ちなみに、私は「惚れたが負けよ」と思った。最後に殺されようが、彼女に惚れたお前が悪いのさ。殺されるのも運命と思って受け入れなさい!と言いたくなった。

これはそのままストリップに当てはまる。もともと女に相手にされない中年男は、絶世の美女である踊り子に相手にされるはずがない。冷静に考えたら誰でも分かる。それでも男はストリップにロマンを求め、若い踊り子に惚れる。どんなに尽くし、どんなに裏切られようが、「そんな女と知らずに勝手に惚れたお前が悪いのさ」ということなのだ。

ここで先ほどのAimerの話に繋がる。「全ては自分に収斂していく」ということがポイントになる。

愛は必ずしも綺麗な部分だけではない。ときに嘘にまみれた汚い部分もある。それはストリップ愛も同じ。しかし、清濁あわせて飲み込むことにより、初めて自分の一部になる。そして、美しい思い出になる。悲しみや絶望が大きければ大きいほど思い出も美しいものになる。そう思いたい。

 

私にとって究極、「ストリップ愛とは踊り子を見守る愛だ」と思っている。許される限りで、時間と労力とお金を費やしていく。その際、大切なのは適度な距離感。彼女のプライベートな部分には立ち入らず、劇場という限られた時空の中で、必要なときだけ自分の可能な範囲でサポートしていく。そうであれば、余計な感情で楽しいストリップをつまらないものにしないで済む。「愛」の範囲内にとどめ、「憎」に踏み込まないようにする。そうすることで、自分のストリップ歴の中で、一人一人の踊り子を楽しい思い出として語り続けたいと思うのだ。

20年間ストリップを観続けているが、これがなかなか難しいのもストリップである。