飛ばし記事ばかり書いていても仕方がないのでまじめな話も
息子を見ていて、自分の子供時代と照らし合わせて何が教育にとって大事なのか、そのファクターは何なのかをつねに探している。もちろん答えはまだ出ない、でも先日書いた研究者へのインタビューもその調査の一環だ。
題は、「子供に考えさせる」としたが、考えさせるというのはおこがましい。子供が考えることを理解して拾ってあげるのが、親のできる精いっぱい。
考えさせる、と考えた時点で自分より賢くならない、もしくは現状賢くない、ということになる。そしてそのようにして子を育てたら、実際自分より小さな人間になってしまうだろう。
会社にもそういう人間がいる。自分より価値観が狭い人間を取巻きにおく、取り立てる。自分の価値を超えないので、自分は優越感に浸れる。しかしその結果、自分を超えない人材しか育たず、組織は衰退する。小物の承認欲求が会社を潰す。
自分の承認欲求を子供に向けても全く意味がない。子供を矮小化してしまうだけだ。
うちの息子もすでに私より優れている面がいっぱいある。性格、体力、知識と思考、それぞれの面で私より秀でている。要はそれを親が理解できるかどうかで子の将来が決まる。
人は評価した方向に伸びる。「勉強が我が家の価値だ」とすれば、その方向に伸びるが、それ以外の方向には伸びなくなる。これは会社の人間を観察していて思うことだ。
その家庭に勉強以外の一貫したリベラルアーツがあるかどうか?が家庭という土がどれだけ肥沃かを指すと思うし、子供のどこでも評価されないいいところを評価する、という力が親力の一部であると思う。一貫した、と書いたが、下に書いたような子供が持ち込んだリベラルアーツは大歓迎だ。
さて、本題の「考える」ということだ。
うちの息子は最近学童で囲碁を覚えてきた。
囲碁版を買ってほしいというので、買った。そして私も囲碁を覚えるため本を読んだ。
そして学童や家で囲碁をやっていると、はじめはハチャメチャなのだが、ハチャメチャなりに自分の考えやつけた作戦名を発表するのである。
この場合、こうしたほうがいいとか言ってしまうほうが楽かもしれないが、言うと子供のモチベーションが下がってしまう。大事なのは子供が自分で考えたアイデアかどうか、という点である。滅茶苦茶な作戦でもそれが自分のものなら、どんな優れた一手よりもその子にとっては価値がある。
対局のレベルは、場数を踏んでいけばおのずと上がってくる。そしてあとでそのゲームの作戦本を読んでみると意外に同じようなことが書いてあったりする。それだったら自分(達)でそこまでたどり着いたほうがどれほど価値があるだろうか。
また後日書くが、今後AIが発達すれば、思った以上に味気ない未来が訪れるだろう。たとえるなら、ゲームと一緒に完全攻略本を渡されるような、何だったら自動で攻略するのを端から眺めているような未来だ。
じゃあそれでいいじゃん!、となるかもしれないが、私の考えは逆である。プロセスを理解できる人間かそうでないか、そこが分かれ道になる。プロセスを知らない人間、知らなくていいと思う人間は使われる側になると思う。
私は息子に、AIを操る側の人間になってほしい。