緩和医療を目指す医学生の問わず語り ~ ナラティブに、ロジカルに、フィロソフィカルに

緩和医療を目指す医学生の問わず語り ~ ナラティブに、ロジカルに、フィロソフィカルに

臨床で学べること、本、論文から学べることを書いていきたいと思います。医学哲学、緩和医療、腫瘍精神医学(サイコオンコロジー)、終末期医療などに関心を持ちつつ、いよいよ始まる臨床実習(BSL)の感想など、医学生の視点で書き残していきたいと思います。

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医者が患者さんを診るのは当たり前だけど、
家族を守ることも、一つの仕事。

患者さんの状態がどうなるかは、家庭にも大きな影響を及ぼすからには、
患者さんとの関係と同じくらい、
時には、患者さん自身との関係以上に、大切になることもありそうな。



治療を拒否する患者さんと、
治療しないと状態が悪化することが分かっている家族(と医者)。

患者さんとしては、治療を受けることへの不安も大きいんだと思います。

しかし、それはそれとして、
治療を受けなければ、もっと痛い想いをしなければいけないし、
家族としても介護やサポートが大変になってしまう。

治療をする以外に方法は無い、と正論を押し付ければ、
それで患者さんの不安が取り除かれるわけでもないし。

かといって、不安な気持ちを真受けにしていても治療は始まらないし、
家族も困るし。


何事もバランスが大事。

医療の現場で働いているのは、医者や看護師、様々なコメディカルスタッフの方々。

当たり前だけど、みんな人間であって、
何が絶対的に正しいかなんてことは、誰にもわからないこともある。

学生の身ながら、
「それはどうなのかなぁ・・・」と思ってしまう診断や治療方針、処方もあります。

そんなことは、医者になれば、日常茶飯事なんでしょうし。

悶々とすることもあるけれど、今は敢えてその是非は論じないようにしています。

「あれは間違いだった」
「それはやるべきではなかった」
と、
否定するのは簡単。
結果論を持ち出すのも、ズルイ感じがする。

何より、今の自分は、まだ現場という舞台にすら立てていないから。
自分だったらどうしていたか、その仮定も立てられないから。

悩むことは大事だし、
問題点を問題として扱うことも大事だけど、
批評や批難するようなことはしたくないから、しないように心がけたいです。

正義の味方を気取るのは、気持ちいいけど、
力無き正義は、あまりに無力で虚しく、淋しいから。

まずは力を。
しっかり勉強することが、今の自分にできること。

ときに、判断は一瞬で下さないといけないこともある。
ちょっとした躊躇が命取りになることがある。

机上の空論のような、丸暗記の知識ではなく、
活きた知識、生きるため、生かすための智恵を手に入れるために。

そして、考えるならば、
「なぜそうなったのか?」
「なぜあの判断は良くなかったのか?」
「ではどうすればよかったのか?」
と、前に進むためのきっかけにしなければ。




感染症が専門の、神戸大学の岩田健太郎先生。
たくさん本も書かれていますが、読みやすいので好きです。


言われたこと、指示されたことはソツなくこなせるけど、
自分で考えて動くことは苦手。
そんな研修医を指導していて、
「主体性を教えるにはどうすればいいのか」
とよく考えておられるそうです。

臨床実習を回り始めた今、この本を読んで感じたのは、
「指示されたこともよく分からない・・」

まあでも、基礎→指示されたことをこなす→主体的な医療
という階段を登らなければいけないわけでもないし、
今から主体性に学ぶことも大事だし。
心構えの問題なので、大いに学ぶところがありました。

研修医は、一人前の医者になるために研修医という立場にある。
一人前の医者とは、指導者のスーパービジョンがなくても
独立して診療できる医師であることを意味している。
それが目的だ。
つまり、指示する上級医がいなくても
独立したパショーマンスができなければいけないのだ。
研修生活をつつがなく過ごすことや、
上級医と仲良くすることは研修の目的ではない。


臨床実習も、全く同じで。
一人前の医者になるための実習。
症例レポートを書くために、患者さんを受け持つのではなく、
病気を理解するために、患者さんの病態を知るのでもない。 

ともすれば、目的と手段が入れ替わりがちです。


手段と目的の顛倒は日本に蔓延している病理である。
たいてい、これで間違えている。
手段と目的の顛倒思考停止のなせる業である。
すなわち、そこには主体性が欠けている
研修医は、研修を修了した後という時代を生きるために研修している。
研修医時代は手段であり、目的ではない。
主体性を欠いたまま研修医でいることは可能である。
しかし、主体性を持たずに一人前の医者になることは不可能である。
 
目的は、未来にある。
未来を生きるために、今がある。
学生時代も、手段であり、目的ではない。
テストでいい点をとることが目的ではないし、
国家試験に合格することが目的でもない。
それは、目的を果たすために、必要な手段であって、やはり目的ではない。

目的って、なんでこうも忘れがちなのか、
我ながら可笑しくなってしまいます。



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じゃあ、医者になる目的は?
主体的な医療とは?
医療の目的は一体何だろうか?


この先は、哲学の出番かな。