ボラQ211:私の好きな歌で「バラが咲いた」という歌があります。歌詞もメロディーも簡単なので生徒に教えてあげたら、助詞の「に」について質問されました。「淋しかった僕の庭にバラが咲いた」という部分で、場所を示す助詞として「に」が使われていますが、「咲いた」という動詞は“存在”ではなく“動作”を表す動詞なのに、なぜ「で」ではなく、「に」を使っているのか、という質問です。また、1番の歌詞では「いつまでもそこに咲いてておくれ」と「に」が使われているのに、2番の歌詞では「いつまでもここで咲いてておくれ」と「で」が使われています。これまで“存在の場所”は「に」、“動作の場所”は「で」を使うと教えてきましたが、こういう場合はどう説明すればいいのでしょうか。
ボラとも先生A211:確かに初級レベルの文法では、“存在の場所”は「に」を付け、“動作の場所”は「で」を付けると教えますし、そうした基本的な使い方以外の用法については、中上級レベルになってもあまり説明されていないようです。私も今回のボラQ211さんの質問で、「に」の用法についていろいろ調べてみて、初めてわかったことがかなりありました。
『日本語類意表現』(森田良行、創拓社、1988)の第八章49にある『「廊下に待っている」か「廊下で待っている」か』(pp.380-6)という記事を読んでみたところ、「に」と「で」の使い分けは、それほど簡単なものではないことがわかりました。その記事の最初の部分に「に」と「で」の使い分けについて次のようなまとめがあります(わかりやすく色分けをしました)。
➀「に」と「で」のどちらを使ってもほとんど同じ状況を表す場合:
➀A)日本に見られる現象/日本で見られる現象
➀B)家にじっとしている/家でじっとしている
➀C)都会に生活する/都会で生活する
➁「に」が行為の目指す場所を表し、「で」が行為の行われる場所を表す場合:
➁A)店先に並べる/店先で並べる
➁B)木の下に座る/木の下で座る
➁C)軽井沢に地所を買う/軽井沢で地所を買う
➁D)学校に電話をする/学校で電話をする
➂「に」がものの存在する場所を表し、「で」が行為の行われる場所を表す場合:
➂A)その本は図書館にある
➂B)説明会は図書館である
➂C)テストは隣の教室にある。
➂D)テストは隣の教室である。
ただし、ここで挙げた➂C)と➂D)は以前の記事(No.9:場所を表す「に」と「で」について)で紹介したことのある例文です。「テスト」という名詞には「テストの問題用紙」と「テストをする行為」という2つの意味があるために、「に」を使った場合と「で」を使った場合では違った意味になります。
➂A)や➂C)の「~にある」は「~に存在する」という意味になり、➂B)や➂D)の「~である」は「~で行われる」という意味になるのですが、初級の日本語教育では主にこの➂のタイプの違いだけを教えることが多いようです。
さて、ではボラQ211さんの質問にあった「バラが咲いた」という歌の中に出てくる➃のような「に」と「で」は上記の➀~➂のどのタイプに当たるのでしょうか。
➃A)淋しかった僕の庭にバラが咲いた
➃B)そこに咲いてておくれ(1番の歌詞)
➃C)ここで咲いてておくれ(2番の歌詞)
➃B)と➃C)を見ると、「に」と「で」が違っているだけなので、どちらでも意味にはほとんど違いはないようですから、➀のタイプのように見えますが、本当にそうなのか少し詳しく調べてみたいと思います。
たとえば、少し古くなりますが、似たような歌詞を含んでいる「春が来た」という童謡(小学校唱歌)があります。その2番と3番を見てみると、⑤A)と⑤B)のように、「咲く」は「に」、「鳴く」は「で」というように、区別しているように思えます。
⑤A)花が咲く、花が咲く、どこに咲く、山に咲く、里に咲く、野にも咲く(2番の歌詞)
⑤B)鳥が鳴く、鳥が鳴く、どこで鳴く、山で鳴く、里で鳴く、野でも鳴く(3番の歌詞)
そこで、上記の『日本語類意表現』の記事『「廊下に…」か「廊下で…」か』の説明を見てみると、➃B)と➃C)と同じような構成をした次の⑥A)と⑥B)の違いについていろいろ詳しく説明されていました。
⑥A)廊下に待っている
⑥B)廊下で待っている
著者は、その理由を説明するために、⑦のような“使役形”を使った文に基づいて議論を進めるのですが、「に」と「で」の違いを説明するには少し議論を広げすぎているような気がするので、ここでは⑦に関する詳しい考察の内容は省き、⑥A)と⑥B)の違いに関して要点だけを述べておきます。
⑦A)私は友だちを廊下に待たせてある。
⑦B)私は彼女に友だちを廊下で待たせてある。
ちなみに、下の文⑦B)「私は彼女に友だちを廊下で待たせてある。」の状況を説明すると、「友だちを待っている」のは「彼女」であり、彼女にそのようなことをさせたのが「私」ということになります。それに対して、上の文⑦A)「私は友だちを廊下に待たせてある。」では、「待っている人」と「待たされている人」は同じ人物、つまり「友だち」なのですが、その友だちが「待っている」のは「私」とは限らないことに注意してください。「私」は「友だちが待つ」ような状況を作り出しただけなのです。
ここでのポイントは、下の文⑥B)「~で待っている」がふつうによく使う文であり、「待つ」という“動作”を表す動詞なので、「~(主語)が~(場所)で~(対象)を待つ」という文型になりますが、上の文⑥A)「~に待っている」という表現は少し特殊な文で、「誰かを待つ」という“動作”よりも、「待つ」という動作をしている“場所”に重点を置いた表現なので、目的語を表す「~を」という表現は取ることができない、ということです。
こうしたことから、➃A)の「僕の庭にバラが咲いた」の「に」も「咲く」“場所”に重点を置いた表現ではないかと考えられますが、それでは、どんな動詞でも➂のタイプになることができるのか、という疑問が生じてきます。
そこで、『明鏡国語辞典』(初版、2002年)で格助詞の「に」を引いてみると、最初の見出し一➊(Ⅰ)動作・作用の成立に深く関わる場所を表す、という項目の小見出し㋐と㋑に次のような説明と例文が載っていました(p.1243)。
㋐存在の場所や所有する者を表す。「机の上に本がある」「彼には子供が三人いる」表現「?道ばたに犬が死ぬ」「?ベッドに男が眠る」のように、動詞だけでは「に」をとれないものでも、「ている」が付いたり、連体修飾語になったりすると、「道ばたに犬が死んでいる」「ベッドに眠る男」のように、「そこにそういう状態である/いる」という意味を表すものもある。
㋑物事が生じる発生・出現・新設などの場所を表す。「枝先に芽が出る」「庭に小屋を建てる」
これを読むと、➁の「行為の目指す場所」に分類されていた➁C)「軽井沢に地所を買う」の「に」も、➃A)「淋しかった僕の庭にバラが咲いた」の「に」も、➃B)「そこに咲いてておくれ」の「に」も、⑤A)「…どこに咲く、…」の「に」も、すべて㋑の「物事が生じる発生・出現・新設などの場所を表す」タイプと見なすことができるように思われます。
それに対して、⑥A)「廊下に待っている」の「に」も、⑦A)「私は友だちを廊下に待たせてある。」の「に」も、さらには、前回の記事(No.210:「マスクがどこにも売っていない」)の「に」も、すべて㋐の表現の説明に当てはまる例だと考えられます。
最後に、➃B)と➃C)の意味の違いについて説明しておきます(以下に再掲)。
➃A)淋しかった僕の庭にバラが咲いた
➃B)そこに咲いてておくれ(1番の歌詞)
➃C)ここで咲いてておくれ(2番の歌詞)
➃B)と➃C)の表面上の違いは「そこ」と「ここ」だけですが、「そこ」が意味する場所は「僕の庭」ですが、「ここ」の意味する場所は「僕の庭」から「僕の心」に変化しています。そして、「に」は“発生の場所”、つまり、静的な状態を強調するのに対して、「で」は“動作の場所”、つまり、生命の動的な躍動感が出てくるのを微妙に感じ取った作詞家(浜口庫之助)が、未来に対する希望というニュアンスを出すために、「に」を「で」に変えたのだろう、というのが私の推測です。