「マスクがどこにも売っていない」について | ボラとも先生のブログ

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このブログは日本語ボランティアを始めた人、やっている人が疑問に感じたこと(特に文法など)について説明するために作りました。

ボラQ210➀の文について質問があります。「売る」というのは➁のような文型で使うのだと思いますが、➀ではどうして「マスク」(売られているもの)に「が」が付き、「どこ」(売る場所)に「に」が付くのでしょうか。➂のように「店員が」が省略されるのはなんとなくわかりますが、「マスクが」は「マスクを」で、「どこにも」は「どこでも」ではないでしょうか。

 

マスクがどこにも売っていない。

➁〇(人)が□(場所)で△(もの)を売る。

(店員が)店でマスクを売っている。

 

ボラとも先生A210:教科書を使って日本語を教えたり勉強したりしていると、➀のような日常会話に出てくる自然な日本語は、習った文法や文型では説明できなくて困ることがあります。

 

おそらくボラQ210さんは教科書や文法の本で教えたり習ったりした「文法」や「文型」というものを絶対的な規範と考えているようですが、実際には従来の「文法」や「文型」では説明できない現象もたくさんありますし、ことばの「変化の途中」の段階のものもよく目にしたり、耳にしたりすることもあります。たとえば、以前の記事(No.192:「降りれないです」とことばの変化について)を参照。

 

ご指摘の➀「マスクがどこにも売っていない。」という文はそうした特殊な例に含まれるのではないかと考えられます。この場合は「売る」という動詞の意味(ふつうは➁や➂)と、いっしょに使われる助詞や文型とがうまく合わないで、結果として折衷的な表現が生じてしまった可能性が高いようです。

 

まず、➀のような文が話される具体的な状況を考えてみましょう。たとえば、「安倍さん」という人がどうしてもマスクを手に入れたくて、マスクを売っている可能性のある薬局やコンビニやそのほかの店に行ってみたけれど、どこにも売っていなかったので買えなかった、という事実を奥さんの昭恵さんに報告しているというような状況が想像できます。

 

このような状況下の安倍さんにとっては、➂のような「店員が店でマスクを売っている」という場面を想定することはないだろうと考えられます。なぜなら、安倍さんの頭の中は「マスクがあるかないか」、「あれば手に入れる」ことだけであって、誰がどこで売っていても関係ないからです。

 

つまり、「売る」という動詞を使うときに一般的に想定される、➂のような典型的な場面やそれを抽象化した➁のような「文型」は辞書や文法の説明のときに出てくるものであり、安倍さんにとって、本当の気持ちは➀の「マスクがどこにも売っていない。」というよりは、次の➃のように「マスクがどこにもない。」ということを言いたかったのだろうと考えられます。

 

マスクがどこにもない。

 

それでは、なぜ安倍さんは➃のような本当の気持ちを率直に言わずに、➀の「売っていない」のように「売って」という動詞を使ったのでしょうか。そのことを考えるためには、まずボラQ210さんのご意見について少し想像をめぐらしてみたいと思います。

 

ボラQ210さんは、➂のような文で「店員」が省略されるのはなんとなくわかると書かれていますが、その理由として考えられるのは、このような実際の場面では、マスクという「商品」が問題になっているわけですから、その商品を販売する「店員」はあまり関係がありません。話の内容にあまり関係ないことはわざわざ言及する必要がなく、省略されるのは当然だと思ったのではないでしょうか。

 

一般に「ことば」というものは、人間にとって関心のある神羅万象を細部に至るまでかなり正確に表現できますが、写真や映像と較べると、関心のないことについては基本的に無関心で表現しないという性質をもっています。おそらく、「店員」が省略されるのがなんとなくわかると書かれたボラQ210さんの頭にも、そのような考えが浮かんだのだと思われます。

 

では、なぜ➂では「店員」が省略できるのに、➀の「売っていない」の「売って」を省略して➃のように表現しないのでしょうか。

 

➀マスクがどこにも売っていない。

➃マスクがどこにもない。

 

もちろん、前述の安倍さんの場合であれば、➀と言っても➃と言ってもどちらでも同じような内容になりますが、もし、忘れっぽい昭恵さんが家の中のどこかに置いた「マスク」をあちこち探していて見つからなかった場合には、当然のことながら➃とは言えますが、➀とは言えません。

 

ということは、➀の「売って」の部分には、表現されていない「買おうと店に行ったけれど」という暗黙の了解が暗示されていることがわかります。

 

つまり、「売る」という動詞の場合、文型としては➁のような場面で使うのが一般的ですが、場合によっては⑤のような文型でも使われるということがある、ということになります。ただし、➁の文型で使われる「売る」という動詞はふつうの「売る」という「動作」を表しますが、⑤の「売っている」という動詞は動作というよりは「状態」を表していて、「売られている」という意味になります。

 

マスクがどこにも売っていない。(→⑤の文型)

➁△(人)が□(場所)で〇(もの)を売る。

➂(店員が)店でマスクを売っている。(→➁の文型)

⑤〇(もの)が□(場所)に売っている。

 

『問題な日本語その3』(北原保雄(編)、大修館、2007)のp.67-70には「本が売っている」という項目でこの問題を取り上げていますが、そこでの主張は次のようなものです。

 

販売中の状態を表すには、本来なら「~が売られている」という受け身の言い方しかできないけれど、少し回りくどい感じがするので、「販売中である=売っている」と考えて、そのまま「~が売っている」のように言ってしまったのだろう、というものでした。

 

つまり、「売られている」という言い方は「回りくどい」から避けられた、と説明しているわけですが、この意見には賛同できません。私見を述べさせてもらえば、「売られている」が避けられたと考えたとしても、その理由は決して「回りくどい」からではなく、日本語ではそもそも受身形は翻訳体として使われるようになったという歴史がありますから、会話で使う文体として固すぎるからではないでしょうか。

 

さらに、「本が売っている」のように「が」を使うのは述語(「売る」)との「ねじれ」であって間違いだとも書いてありました。そして、このような場合は「が」という助詞を省略して、「本、売っているよ」のように言えば許容度が格段に上がるとも書かれていました。

 

しかし、この主張にも違和感があります。➀の文の「マスクが」の「が」を省略して、⑥のように言ったとしても少なくとも私には同じ程度に許容できるからです。

 

➀マスクがどこにも売っていない。

⑥マスク、どこにも売っていない。

 

それ以外にも、『問題な日本語その3』の説明では触れられていない論点を指摘しておきます。そこでの主張は、「販売中である=売っている」であるから、「販売中である」の代わりに「売っている」と言ってしまったという内容ですが、次の例のように、この二つの表現には場所を表す表現(たとえば、「薬局」)に大きな違いがあります。

 

⑦A)マスクが薬局販売中です。(〇)

⑦B)マスクが薬局販売中です。(×)

A)マスクが薬局売っています。(〇)

B)マスクが薬局売っています。(〇)

 

「販売中である」という表現を使うと、⑦のように売っている場所を示す助詞として「で」は使えるのに「に」は使えませんが、「売っている」という表現にすると、⑧のように「で」でも「に」でも使えるようになります。「販売中である」と「売っている」はほとんど同じような意味をもっているのは確かですが、完全に同じ意味を持っているわけではないからです。

 

これは、「売っている」という表現が本来は「売る」という動作を表す動詞と「いる」という存在を表す二つの動詞からできていることから説明できます。つまり、「売っている」や「売っていない」という表現の中には商品の“存在”や“不在”も暗に示すことができるのに対して、「販売中である」にはそうした“存在”の意味はなく、“進行中の動作”か“持続する状態”の意味しかないからだと考えられるからです。

 

ちなみに、助詞の「で」と「に」は両方とも場所を表すという点では同じですが、「に」は“存在”の場所を表すのに対して、「で」は“動作”の場所を表す、という違いがあります。

 

最後に「マスクが」の「が」についてですが、⑨の「安倍のマスクが」の「が」のように存在する人やものを提示する「が」と同じものだと考えられます。

 

⑨安倍のマスクがメールボックスにある。