ボラQ190:先日ドイツ人の会員がテレビを見ていたらテロップに、平仮名の「あ」に「゛」(てんてん)が付いた「あ゙」という文字が出てきたそうです。どのように発音するのか聞かれました。図書館で『てんてん』という本を借りて読んでみたら、具体的な発音を表すのではなくて、感情を表す文字だと書かれていました。本当にそうなんでしょうか。
ボラとも先生A190:『てんてん 日本語究極の謎に迫る』(山口謠司、角川選書、2012)という本だと思いますが、この本には次のような説明があります。
①…昨今、テレビの番組で流れるテロップで「あ゙~」や「ん゙~」という摩訶不思議な文字を目にすることがある。「あ~」でも「ん~」でもない、これらの文字はただ「てんてん」をつけただけで、ひらがな一文字では言い難い微妙な感情を表現する。「てんてん」の視覚的効果が心情をも表すとは、昔の人は到底考えてもみなかった発想である。(p.9)
②…漫画を見ていると、「ん゙~」「え゛ー」という表現が使われているのに出くわすことがある。これらを実際にどのように発音するかは、読者はもとより、作者にもわからない。しかし、日本語を母語にしている人は、「なんとなく」音をイメージすることができる。(p.202)
②の説明のあとに、実例として次のページに男の子が「え゛」と言っているマンガの場面が転載されていました。(p.203)
この問題に関しては、文化庁が平成7年度から毎年実施している「国語に関する世論調査」(平成27年)の問20(2)(p.15)に③のような調査結果が出ています。
http://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/pdf/h27_chosa_kekka.pdf
③…「あ゛」「え゛」「ま゛」など,一般的な書き方としては「゛」(濁点)を付けない仮名に「゛」(濁点)を付ける表現を見たことがあるか,また,使ったことがあるかを尋ねた。――「見たことがない」が55.8%と最も高くなっている。性別に見ると,「見たことがない」は男性の方が6ポイント高くなっている。「見たことがある」は41.2%。
①~③の説明を読むと、ふつうは「゛」(濁点)を付けない仮名に「゛」が付いた「あ゙」「え゛」「ま゛」などの文字は読むことができないようですが、ネットを調べてみると、「驚いたり、ショックを受けたりしたときの叫び声」とか「断末魔の叫び声」などという説明がありました。
実は、私も偶然、テレビで男性アイドルがオリンピック選手と同じ練習をして死にそうになっているときの声が「あ゙~」としてテロップに流れたのを見たことがあります。
ですから、私の印象としては「ギャー」とか「ゲー」のような発音かなあと思っていたところ、Wikipediaで「濁音」の項目を調べてみたら④のような説明がありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%81%E9%9F%B3
④…なお、近年、子音を伴わない「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」に濁点を付ける俗表記が漫画等で見られるが、これは声門の緊張を伴う発音を表現していることが多く、濁音を表しているのではない。
この説明ではア行以外の「ま゛」や「ん゙」の発音については何も言っていませんが、ア行の仮名に濁点が付いた「あ゙」、「い゙」、「ゔ」、「え゙」、「お゙」やカタカナの「ア゙」、「イ゛」、「ヴ」、「エ゙」、「オ゙」などは発音できるようです。
つまり、「あ゙~」は(喉に力を入れて)喉の奥を絞って出す「アー」という苦しげな音ではないかと思われます。上で引用した②のマンガの男の子が言っている「え゛」も、やはり、喉の奥のほうから出す「ゲー」というような驚いたときの声である可能性が高いと思われます。
どちらも日本語ではあまり使わない音声なので、マンガなど自由な表現が可能な表現媒体で使われるようになったのではないでしょうか。
こうした音声は一種のオノマトペ(擬声語・擬音語)なので、それをどのように表記するのかはまだ定まっていないために、「国語に関する世論調査」の結果のように、見たことがない人が半数以上ですが、テレビのテロップなどでも用いられようになってきているので、今後は一般化するかもしれません。
実際の音声は、低い「ダミ声」のようなものだと思われます。「ダミ声」は「濁声」とも書くように濁った印象があるために、濁音のシンボルである「゛」(てんてん)を付けて表記するようになったのではないでしょうか。
ちなみに、清音・濁音の「清濁」ということばは中国の音楽用語で、清が高い音、濁が低い音を指したものが、伝統的な音韻学で使われるようになったそうです。詳しくは上記のWikipediaの「清濁」の項目をご参照ください。
日本語で使われる「濁音」というのは「清音」の反意語であり、音声学的には「有声音」のことを言いますが、日本語の場合は、対応する「無声音」があるカ行とサ行とタ行、そしてハ行の有声音を「濁音」と呼び、そのほかの有声音(ア行、ナ行、マ行、ラ行、ワ行)は「清音」として扱われています。
ちなみに、ハ行の濁音であるバ行の発音は[b]ですが、それに対応するハ行の清音は[h]であり、[p]ではありません。パ行の[p]は「半濁音」と呼ばれ、「゛」ではなく、「゜」(マル)を付けてあらわします。
また、「有声音」というのは「声帯」を振動させて出す音なので、連続して発音できる母音の場合には「アー」と言いながら喉のまん中を触ってみる喉ぼとけが少し震動しているのがわかるはずです。
子音の場合は発声時間が短いので、[k]と[g]、[t]と[d]、[p]と[b]などの違いがわかりにくいのですが、舌と上あごの隙間から出す摩擦音の[s]と[z]の場合なら[ssss]と[zzzzz]と長くのばして発音できるので喉に指を当ててみれば違いがわかると思います。
ひらがなの「ゔ」は上で説明したように、喉をしぼった低音の「う」という発音を表していると考えられますが、カタカナの「ヴ」は例外です。
1991年に国語審議会の答申に基づいて出された「外来語の表記」に、カタカナの「ヴ」は外国語の[v]を表すという規定があるためです。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/k19910628002/k19910628002.html
「ヴ」という文字で外国語の[v]の音を表すように提案したのは、以下のWikipediaの説明によると福澤諭吉だったようですが、上記の本『てんてん 日本語究極の謎に迫る』では森鴎外の逸話しか触れられていないので、森鴎外が作り出したのかと思ってしまいがちですが、どうも違うようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4