「書写のある火曜日」と「ガ・ノ交替」について | ボラとも先生のブログ

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このブログは日本語ボランティアを始めた人、やっている人が疑問に感じたこと(特に文法など)について説明するために作りました。

ボラQ191:小学生のお子さんがいる韓国人のお母さんから書写ある火曜日」の「の」はどういう意味かと聞かれました。「書写ある火曜日」と同じ意味だと教えてあげたのですが、文法的な説明を教えてほしいと頼まれてしまいました。よろしくお願いします。

 

ボラとも先生A191:もちろん、「書写ある火曜日」と「書写ある火曜日」はほとんど同じ意味で使われていて、どちらを使っても意味の違いはありませんから、説明として問題はないのですが、質問者が文法的な説明を希望したのは、どのようなときに「が」を「の」に変えられるのか、また、「が」と「の」では意味的な違いがあるのかを知りたかったのだろうと思われます。

 

たとえば、①A)のような文では「が」を「の」に変えることができますが、①B)の文の「が」を「の」に変えることはできません。

 

①A)書写(が/の)ある火曜日は書道セットを持ってきてください。

B)火曜日は書写(が/×の)あるから、書道セットを持ってきてください。

 

では、①A)①B)はどう違うのかというと、①A)では「書写(が/の)ある」という部分が「火曜日」という名詞を説明する修飾」になっていますが、①B)では「(火曜日は)書写があるから」は「(書道セットを)持ってきてください」という主節の理由を表す「副詞節」になっているという点が違います。

 

「副詞節」というのは、別の言いかたをすれば動詞や形容詞の「用言」を修飾する節なので「連用修飾節」ということもできますが、日本語教育では「体言」や「用言」という表現を使いません。①A)の場合も学校文法では「連体修飾語」といいますが、日本語教育では「名詞修飾節」と呼んでいます。

 

ちなみに、「体言」は名詞、「言」は動詞や形容詞のことですから、「連体形」というのは名詞に連なる(続く=かかる)形、「連用形」というのは動詞や形容詞に連なる(続く=かかる)形という意味です。

 

学校文法では動詞の活用形の名称として覚えている人も多いと思いますが、この名称は古典文法の名称をそのまま使用し続けているものなので、日本語教育では使われていません。

 

現代文では「連体形」と「終止形」は完全に同じ形なので違う名称にする必要がないことから、日本語教育では両方とも「辞書形」と呼んでいますし、古典文法では「連用形」という語形は1つしかありませんでしたが、現在は2つの語形(たとえば、「書(ます)」「書(て)」)に分かれていますから、日本語教育ではこの2つの語形を区別して前者を「マス形」、後者を「テ形」と呼んでいます。

 

また、「節」と「文」の違いについてですが、「節」とは、動詞や形容詞などの「述語」とその述語をいろいろ詳しく説明する要素から構成されたものを言います。そして、そういう「節」から構成されたものが「文」になるわけです。一つだけの「節」から構成されているものは「単文」数の「節」から構成されているものは「複文」と言います。

 

「複文」の各節の主従関係を考慮して、主要な節を「主節」、従属的な節を「従属節」と呼んだり、対等な関係の節から構成された文を「重文」と呼んで「複文」とは区別したりすることもあります。

 

さて、文法用語の説明はこのくらいにして、①A)と①B)の例文にもどることにします。

 

①A)のように、名詞修飾節の中の「が」と「の」を入れ替えることができる現象を「ガ・ノ交替」と言いますが、①B)を見ると、「ガ・ノ交替」ができるのは名詞修飾節だけで、同じ従属節であっても「副詞節」の場合はできないように考えられます。

 

しかし、『初球を教える人のための 日本語文法ハンドブック』(松岡弘 監修、スリーエーネットワーク、2000)で調べてみると、実は名詞修飾節でも②A)のように、「が」と修飾される名詞とのあいだにいろいろな語句が入っている場合は、「の」に入れ替えることができない(不自然な)場合や(p.184)、②B)のように修飾される名詞(「よう」)が形式名詞だけれど、実質的には「副詞節」なのに、「ガ・ノ交替」が可能な場合もあります(p.343)。

 

②A)太郎(が/×の)夏休み中に一生懸命書いた手紙

B)彼(が/の)言ったように、机の上には手紙があった

 

さらに、ネットで調べると『定量的分析に基づく「が/の」交替再考』(南部智史、言語研究131号、日本言語学会、2007)という論文が見つかりました。

 

www.ls-japan.org/modules/documents/LSJpapers/journals/131_nambu.pdf

 

そこにはこれまでの「ガ・ノ交替」に関する文献の論旨がまとめられており、いろいろな条件について、国会会議録を使って議員の発言を統計的に処理した論文ですが、興味深い結論が出されています。

 

まず、「ガ・ノ交替」という現象が現在進行中の変化であって、「の」から「が」への移行中であり、年齢の高い人ほど「の」を使い、年齢の低い人ほど「が」を使うという言語変化が観察されたそうです。

 

これは私の推測ですが、歴史的にみれば、昔の日本語(古文)の助詞「が」と「の」の機能と主語の表し方と関係があるかもしれません。

 

昔は、助詞の「が」は主語を表すだけでなく、現在でもときどき見られる「我家」「君代」「霞関」のように所有格を表す働きがありました。

 

また、昔は助詞の「の」は所有格を表すだけでなく、「しず心なく花散るらむ」「あまりてなどか人恋しき」「ものや思ふと人問ふまで」などに見られるように、主語を表すこともできました。

 

さらに、「春(×)過ぎて夏(×)来にけらし」「我が身(×)世にふる」「ほととぎす(×)鳴きつる方をながむれば」のように、「無助詞」(助詞がつかない名詞)で主語を表すことは珍しいことではありませんでした。

 

つまり、昔の日本語では、最初は、主語を「無助詞」で表していて、主語かどうかの判断は前後関係で決められていたけれど、次第に(人間関係などが複雑になっていったから?)主語というものをはっきりと表したいという欲求がでてきたため、その頃、主語と所有格の両方の機能を持っていた「の」と「が」が使い分けられるようになったのではないか、というのが私の推測の第一段階です。

 

第二段階は、「が」には人間を表す名詞に付きやすいという傾向があったことから、はっきりと主語を表したいときには「が」がよく使われるようになり、次第に「が」は主語、「の」は所有格、というような役割分担ができ、それが現在の日本語の「が」と「の」の機能の違いにまで結びついているのではないか、というものです。

 

この推測が正しいかどうかはわかりませんが、一つの仮説としておもしろいと思います。おそらくもっと文献を探せばいろいろおもしろいことがわかるかもしれません。興味のある人は上記の論文の参考文献に当たってみてください。

 

最後に、この論文に書かれていた「ガ・ノ交替」に関する事実をもう少し見ておきたいと思います。

 

まず、②A)のように、名詞修飾節でも「が」を「の」に入れ替えられない例として③A)が挙げられていますが、このような場合に「ガ・ノ交替」ができない理由は、「が」を「の」に替えてしまうと、「の」が所有の意味に受け取られてしまう可能性があるからだという説を紹介しています。

 

③A)子供たち(が/×の)皆で勢いよく駆け上った階段

B)誰も太郎(が/の)アメリカへ来たことを知らない

 

③A)で「の」がおかしいのは、「子供たちの皆」という意味に受け取られてしまう可能性があるからであり、②A)でも「の」がおかしいのは、「太郎の夏休み」という意味に受け取られてしまう可能性があるからだという説明です。

 

そのために、③B)で「が」を「の」に替えることができるのは、「太郎のアメリカ」という所有格の意味に受け取られることがないからだという説明が紹介されています。

 

次に、名詞修飾節ではないのに「ガ・ノ交替」が可能な例として、④のような「まで」や「より」を使った「副詞節」を紹介しています。

 

④A)バス(が/の)来るまで座っていようか。

B)客(が/の)来るより早く荷物が着いた。

 

このような従属節でも「ガ・ノ交替」が可能だということは、②B)の「よう」の例と一緒に考えてみると、「ガ・ノ交替」は名詞修飾節以外のときでも起きるということなのですが、では、どういう場合に起きるかということまでは言及していません。

 

ほかにも「ガ・ノ交替」について詳しいことが知りたい人はぜひこの論文を読んでみてください。統計的な専門用語もでてきて少し難しいかもしれませんが、「ガ・ノ交替」の全体的な内容について知るにはいい資料だと思います。

 

最後に韓国人のお母さんの質問についてですが、一番簡単で適切な説明は次のようなものだろうと思います。

 

名詞を説明する文(名詞修飾節)では、主語を表す「が」は「の」に変わることがあります。

 

ちなみに、韓国語には「ガ・ノ交替」のような文法現象はありませんが、現代日本語ではなくなってしまった「連体形」という語形があります。