こんにちは。
頑張らせないカウンセラー、しゆうなおみ です。
改めまして、宜しくお願い致します。
それでは、わたしの事を少しお話ししますね。
<幼少期~小学生>
わたしは1962年に東京で生まれました。
父は医師で、母は裕福な家庭の出身だったので、経済的には恵まれた環境で育ちました。
父が自分で開業して忙しくなった事から、父方の祖母が毎日手伝いに来ていました。
また、母方の祖父母は自営の仕事をしていて、その帰りにいつもうちに立ち寄っていました(祖父母の自宅と職場の中間に、わたしの家がありました)。
わたしは両親の考えで、地元ではなく他県の小学校に越境入学しました。
その為、近所に友達がいませんでした。
以上のような状況から、わたしの周囲は大人ばかりでした。
普通に同世代の子供達と遊ぶという事があまりなく、(学校が終わると皆で校庭や公園で遊ぶという事はなく、また友人と家を行き来するという事もなく)家に帰ると1人でラジオを聴きながら絵を描いていました。
今でも、年上の人達と一緒にいるとホッとしますし、1人行動が全く苦ではありません。
両親は子供達をとても愛する人達でした。
愛し過ぎて、子供の将来を心配し過ぎて、口を出し過ぎるようになってしまいました。
すべて両親が決めてレールを敷き、子供達はその上を歩いていけば間違いない、幸せになれる、そう心から信じていました。
子供達が何が好きか、どういうものに興味を持っているか、どういう事に才能を発揮するか、そういった事は両親には何の意味もない事でした。
多分、自分の中の一番の核になる部分を、不要な物とみなされ蓋をされてしまったように思います。
物質的には本当に贅沢をさせてもらったと思っています。
でも心が豊かになったかと言うと・・・・・。
実際には、人付き合いの経験が乏しく、ダメ出しされるのが嫌で隠れてコソコソとしか行動できず、やりたい事を諦めるのが得意な人間になってしまいました。
絵は自分の中の理想を描き出す手段だったと思います。
詩のようなものもよく書いていました。
どれも自分の内面を吐露する道具だったのでしょう。
そしてどんどん、空想の世界に生きるようになっていきました。
空想の世界に存在する人達と関わり、その中でならわたしは楽しく幸せに生きる事ができました。
いつかその空想の世界が現実になる事を夢見ていました。
<中学~大学>
10代前半から、次第に“自分の事を分かってくれない”両親とは口をきかなくなりました。
家ではとにかく部屋にこもっていました。
リアルな友人は少ないのに、一方で何人もの人達と文通をしました(メールなど無かった時代なので)。
文章の中のわたししか知らない人になら、真の自分を見せられるような気がしていました。
中学、高校は私立の女子校でした。
話題に乏しい人間だった事もあり、広く浅い付き合いができず、一握りの話の合う人達と深い付き合いをしていました。
ただ自分を出す事がとにかく下手だったので、ケンカができませんでした。
不満があると、黙り込んだり、相手を避けたりする事でしか表現できませんでした。
当時の友人達には、ずいぶん迷惑をかけたと思います。
いつも両親からダメ出しをされていたので自尊心が育たず、自信もつきませんでした。
外出する時はいつも、自分が選んだ服では心配で、母に見てもらい大丈夫だと言われないと不安でした。
その反面、当時よくあったロック好きな人が着るような服に憧れていました。
いつか自由になったらああいう服を着るんだと思っていました。
自由への強い憧れと、そんなものは自分には無いという諦めが同居しているような感じでした。
その後共学の大学に進みましたが、そこで、それまでの人間関係の希薄さが災いを招きました。
入学して間もなく、(わたしがコントローラーと呼ぶ)上級生に目をつけられ、洗脳のような状態に引き込まれてしまいました。
2年弱の後、ようやくその人物から離れられたものの、その後にお付き合いした人にひどく依存してしまい失恋、何年も引きずって苦しい思いをしました。
<20代後半~>
初めは販売の仕事につきましたが、自分には合わないと気付き、2年半で退職。
離職率の高い職場で、これでも同期の中ではわたしが一番最後までいました。
親戚の紹介で大学病院に勤務。
この頃から両親による見合い攻撃が激化しました。
わたしの兄弟が医者にならない事が確定したので、わたしを医者と結婚させて跡を継がせようとしたのです。
わたしには事前に何も告げず、知らないうちにあちこちに見合いを頼んでいて、知らない間に見合いが次々決まっていました。
わたしは反発しながらも、出て行く勇気もなく、表面的には従い、心の中では激しく抵抗していました。
そんな状態が何年も続き、おかしくなりそうになっていた時に、チャネリングというものに出会いました。
当事ニューエイジ、精神世界と呼ばれていたものの本を読んだり、セミナーの実況録音テープを購入して聴いたりするうちに、自分もこうなりたいという思いがどんどん強くなり、勇気を振り絞り、初めてきちんと両親と話をする事ができました。
自分の為に生きていいのだという事を、初めて知りました。
<40代~>
しばらくは穏やかな日々を過ごしていましたが、ネットを始めてから、おかしい2人組と出会ってしまいました。
相手の要求をどんどん押し付けられるような、一方的な関係になり、そこから逃れようとして失敗。
相手から脅迫の電話が1日中かかってくるような事態になりました。
この時は弁護士さんに相談するなどして事無きを得ましたが、わたしの中で相手への怒りが膨れ上がり、その感情の持って行き場がなく苦しみました。
またその時に相談にのってくれた人ともトラブルになり、どうしても心のケアについて考えざるを得なくなりました。
そんなある日、雑誌で見た、心理学の講座に行ってみることにしました。
自分にとっては必要なものだったのでしょう、強く惹かれて更に続けて上の講座、更にはカウンセラー養成講座も受講するようになりました。
大学の上級生やネットで出会った2人組の事も、どうしてああなったのか、ようやく自分の中で腑に落ちました。
その後も、飛び飛びではありますが、インナーチャイルドセラピーの講座を受けたり、(その頃はスピリチュアルと呼ばれるようになっていた)チャネリングや前世療法、アカシックレコードの講座を受けたり、レイキやタッピングもやってみたりしました。
どれも勉強するのは楽しかったのですが、まだこの頃は自分の為であり、カウンセラー、セラピストなどに自分がなるとは思っていませんでした。
両親への不満はいつしか、罪悪感に変わっていました。
両親が理解してくれない、ではなく、両親の期待に応えられなかった自分を責めるようになっていました。
それは違うという事は、頭では分かっているのですが、感情がついてこないのです。
以前から、わたしの中には複数の異なる思考が同時に存在していて、そのどれもが同じ重要度に思えて、どれも選ぶ事ができませんでした。
両親への罪悪感と、自分のせいではないという思いも、同時に存在していました。
何も選べずどこにも行けない、動けない自分をどうしたらいいのか分かりませんでした。
<50代~>
今度はNLPを受講。
その中でのあるワークから、自分で自分に言い聞かせ続けて暗示をかけていると気付き、暗示を解く為に催眠を習おうと思いつきました。
そしてヒプノセラピーを受講。
ヒプノセラピーもとても面白かったのですが、自分の興味は前世やハイアーセルフとの対話の方に向いてしまい、定番の年齢退行(トラウマの原因になった出来事を思い出し、大人の自分が当時の子供の自分をサポートするというもの)はなかなか上手くできませんでした。
そもそも自分自身が、クライアントになった時に、過去の出来事を思い出せなかったのです。
これに関しては後に、大嶋信頼先生の著書で、本当のトラウマは記憶に残っていないという事を読んで、良かった(自分はおかしくなかったのだ)とホッとしました。
改めて自分のこれまでを振り返り、何をやりたいのか、自分の内面深くを見つめるようになりました。
いつしか自分の中から、両親への罪悪感は消え、またかつての・・・・・極力顔を合わせないよう部屋にこもっていた・・・・・日々など嘘のように、両親との関係はすっかり良くなっていました。
自分が思考に何重にもぐるぐる巻きにされ、本来の自分が全く見えなくなっていたのだと気付きました。
いろいろな技法を習ううち、それらが一つ一つ、はがれていっていたのでしょう。
わたしはその意識をはがすのに、とても長い時間がかかってしまいました。
でも、こうした様々な体験があったからこそ、心の癒しの大切さを知り得たし、これこそがわたしの仕事だと気付けたのだと思います。
もっとずっと短い時間で、もっとずっと楽に、皆様がご自身を縛っている思考から解放される為にできる事を考え、このブログに潜在意識ダイレクトトークと名付けました。
どうか皆様のお役に立てますように。
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