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自らの文章のアーカイブと考えている

ポーランド映画祭2014『悪寒』

ボズナニ暴動(1956.6.28)が起きた時のピオネール(共産主義少年少女団)の13歳の少年を追った作品。

ボズナニ暴動はフルシチョフのスターリン批判を呼び水に、給料の未払いなどを発端となってはじまった暴動だが、追放されていたゴムウカがポーランド統一労働者党第一書記に選出されるところもエピソードとして出てくる。

その少年は敬愛する父親を警察に不当逮捕されたため政府に好感を持っていないが、全寮制のピオネールに推薦される。

そこは情報統制と思想教育と密告社会で、両親の言動を報告させたり、両親が教会に行っているかを調査したりする。

警察官の息子が暴動後のラジオ放送で、警察に不当逮捕された人々の釈放が始まったということを無理やり聞かされ自殺する。
その自殺の原因を問われ、自分と後二人が無理やり聞かせたと告白する。

他の2人は放校となるが、少年は正直が評価され委員へと昇格する。
委員になると部屋も異なり、待遇が大きく改善される。

新聞の閲覧も禁止され、教師も信じていた共産主義の正しさに猜疑心を持つ者もでてくる。
不当逮捕され、釈放された父が迎えに来て一緒に帰ろうと言う。
ところがすでに共産主義化している少年は帰らない。
反共者暴動があり新聞の発行も禁止されるべき重要な時代に帰れないと言い放つ。

学校が閉鎖になり、各自が帰宅させられる。
少年はマルクスの肖像を持って帰ろうとすると、教師がそれを投げ捨てる。

それにしてもピオネールの入る前の生活は貧しく、悲惨だ。
一党あるいは軍事的な独裁国家が常に利用するのは少年少女だ。

行進や儀式が常におかしい。
カメラワークがモダン。

大日本帝国時代、軍国少年化に「貢献」したのは教師たちである。
彼らの勧めにより14歳ぐらいから予科練習生や海軍予備学生になって戦死していったし、満蒙開拓団に送り出し敗戦後放置されたりした。

その検証がされたのかどうか?記憶にない。

1981年ポーランド映画
監督:ヴォイチェフ・マルチェフスキ
大学の音楽サークルの楽しみ

 大学の音楽サークルにはふたつのパターンがある。
 吹奏楽やオーケストラのように全体で演奏するケースと、バンドを組み個々で活動するケースだ。

 駒澤大学のポピュラー・ミュージック・アソシェーション(通称P研)という50年以上の歴史のあるサークルを縁があって聴くようになって3年が経つ。年に3回ほどイベントがあるので、9回近く聞いているかもしれない。
 こういったサークルの楽しみ方にメタなものがある。
 バンドが固定メンバーじゃないので、バンドメンバーの入れ替わりが見られるのである。そして、3年で引退する人もあれば、1年生の新人として入ってくる人もいる。

 もうひとつの面白さはポピュラーの面白さだが、ほぼノージャンルと言っていいと思う。
 いきものがかり、YUI、チャットモンチーがいたと思えば、Aerosmith、マキシマムザホルモン、サンボマスターがいるし、女性が滔々とバラードのWherever you are/ONE OK ROCKを歌ったりする。
 そしてロック研との大きな違いは女性が半数近くいる。
そして、みんな楽しそう。
だから次に出てくるバンドが楽しみになって、32曲5時間の長丁場も苦痛でなくなる。

ロックが学術化しシニカルになったこととの対比としても面白い。
イロモノのような、こう言った音楽体験はなかなか稀有かもしれない。
今までデス系ヘビーメタルをやっていたバンドが
「ぼくたちも人に愛されたくてポップスやりまーす」
と言って、小さな君の手/FUNKEY MONKEY BABYS?を始めたかと思えば、途中からヘッドバンキングになってマキシマムザホルモンに変わっちゃったり、実に楽しませてくれる。

 ちょっと光る一年生がいたり、大学に入ってからギター始めましたというメンバーもいるし、やっぱりガールズバンドは可愛いし。
 なんか雰囲気がいいのだ。

 私がバンドというもののメンバーになったのは1970年だが、仲良くしたという経験がない。なんか殺伐とした感触だけが残っている。
 日比谷野音のコンサートのときはセクトの介入があったし、日本青年館の時は会館側と場内警備でもめた。元々ロックが反社会的音楽だったからかもしれない。アメリカ合州国のある州ではロックを禁止したし。そのときのロックの定義については関心があるが…
 シンナーもケンカもあったし。
長髪は嫌われたし…
練習場所探しも苦労した。

P研のメンバーは曲に合わせて飛んだり跳ねたりそれを見るのがまた面白い。そんな彼女彼らの楽しそうな顔を見ていると、過去の「世間」に悪態をつきたくなる。
これこそロックか…
ヘルマン・ヘッセ翻訳の謎『クヌルプ』 インド人ごっこ?

日本語にはゲームという便利なコトバがある。

ゲームと言えば電源を使うか使わないかは別として大方がだいたいのイメージを持てる。だからボードゲームという単語もあるし、カードゲームという単語も。

これは和製英語である。
ゲームは日本語ではなんと言うのだろう?
相応しい言葉がないのである。
ボードゲームは「盤上遊戯」か?カードゲームは「カルタ」?…少なくとも大方のイメージが共有できるとは思えない。
 
これはドイツ語でも同じなのだ。
 ドイツ語のSpielには以下の意味がある。遊戯、競技、試合、賭博、遊び、戯れ、いたずら、冗談、軽はずみな行動、子どもの遊び、動き、劇、芝居、演技、(道具などの)一式、一揃い(小学館刊GROSSES DEUTSCH-JAPANISCHES WÖRTERBUCH)

 モーツァルトの『魔笛』のジャンルはオペラではなくジングシュピールSingspielであり、歌芝居という意味である。(また偶然に劇中にグロッケンシュピールという楽器も出てくる)Spielには英語で言うGAMEとPLAYの両方の意味合いがあるようである。

 その英語のGAMEも意味は山のようにある。遊び、競技、試合、競技会、狩りの獲物、(白鳥などの)群れ、等々である。

オリンピックの正式名称は英語ではOlympic Gamesと言う。ドイツ語ではdie Olympischen Spieleと言う。

 なぜSpielに拘るのかというと、『クヌルプ』にIndianerspielという言葉が出てくるからだ。この言葉はクヌルプが12,3歳の時にすでに思春期にあり同年代の友達がやっていたIndianerspielには加わらなかったという思い出話として出てくる。その訳はどうなっているかというと…

植村敏夫訳「インド人遊び」
相良守峯訳・芳賀壇訳・高橋健二訳・全集ともに「インディアンごっこ」である。

 この言葉がさらに混乱するのは
「インド人か/インディアンか」
「遊びか/ごっこか」
になるからである。

「インド人」と「インディアン」の乖離ははなはだ大きい。
少なくともインド人はインド亜大陸に由来する人々だが、インディアンはコロンブスが到達したところをインドと思っていたために生じた誤謬から発生した呼称だからである。だからアメリカインディアンという言葉もあるが、これは合州国に居住するインド人のことをいうのではない。(笑)

 インディアンとはアメリカ先住民族のことで、昨今ではネイティヴアメリカンあるいはアメリカンネイティヴという言い方が一般的である。そしてそのアメリカは大陸名と解されている。

ネイティヴアメリカンで思いつくことはあまりに多岐にわたる。
サンクスギブングズデー、いま政界で話題になっている「ティーパーティー」の由来である「ボストン茶会事件」、そしてスポーツでのチーム名「ブレーブス」「インディアンス」「チーフス」そして今年に入ってからチーム名変更が取り沙汰されているNFLの名門「ワシントン・レッドスキンズ」。
 確かにレッドスキンというのは、かつて(今も?)アフリカ系アメリカ人を「黒人」(英語としてはnegro,colored)と呼んでいたことと同じで、民族あるいは人種としてのアイデンティファイを全く表現していないから変更が論議されるのであろう。
(ちなみにインディアンスは先住民族のマスコットをやめクリーブランドのCになったし、レッドスキンズの新聞表記はフランチャイズの「ワシントン」だけになった)

 ドイツ語には「インド人」と「インディアン」を言い分ける便利な単語がある。
前者がIndischで後者がIndianer。
 
そこでIndianerspielがインディアンを模した子どもの遊び、つまり「インディアンごっこ」だと言う事が分かる。(「インド人遊び」というのもカーマを連想してそれなりに魅力をかんじるが…)

かつて日本にあった「インディアンごっこ」に近い遊びは「西部劇ごっこ」だ。
ジョンフォード監督を中心にして多く作られた「西部劇映画」の影響が大きかったと思うし、テレビで「ローハイド」「名犬リンチンチン(後に名犬リンティ)」「ライフルマン」「拳銃無宿」「ボナンザ」などの西部劇ドラマがたくさん放送されていた。

「名犬リンチンチン」はそれこそ騎兵隊で活躍する犬とそれを飼っている少年が主人公だった。(今から思えば「突撃マッキーバー」の主人公の少年は陸軍幼年学校生で模擬戦闘のシーンなどあったので当時の合州国の少年たちには戦争が身近にあったのだろう。そのテレビドラマを見ていた層はヴェトナム戦争に従軍した層だと思う)

ただ「シャイアン」というアメリカンネイティヴが主人公だったテレビドラマもあったし、「ローンレンジャー」では主人公とコンビを組むのはトントというアメリカンネイティヴだった。

主人公は相方から「キモサベ」と呼ばれ、これは五大湖周辺のポタワト語で「頼りになる相棒」という意味だが、トントは蔑称であるらしい。アメリカ先住民族社会では古くからコーカソイドに媚びへつらう者の代名詞として「ポカホンタス」と「トント」があったと言う。(安藤二葉『リオグランデを渡った人々』)

私にも経験がある「西部劇ごっこ」はアメリカ先住民族と敵対する集団に分かれて撃ち合うのだが、アメリカ先住民族が悪役だったかというとあまり記憶がない。逆に今から思うと敵対集団は何だったのかと思う。騎兵隊だったのか、ヨーロッパからの移住者だったのか、よく分からない。

西部劇が転換を迫られるのは映画『ソルジャーブルー』(ラルフ・ネルソン監督)からである。つまり「マニフェスト・ディスティニー」が否定的に見られるようになってからだ。 
また映画『天国の門』(マイケル・チミノ監督)も騎兵隊の描き方において重要な作品だろう。(この作品に関しては最初日本で公開されたときは大幅なカットがされ製作意図が伝わらないフィルムとなってしまったが今では完全版が見られる)

個人的にはジョニー・ディップが監督・脚本・主演しマーロン・ブランドが出演した『ブレイブ』が好きな作品であるが、「西部劇」というよりアメリカ先住民族映画と言えよう。

最大の関心事はヘッセが子どもの頃に遊ばれていた「インディアンごっこ」なるものがどんな遊びなのか、である。
なぜならヘッセが10歳前後というと、1880年代末である。リュミエール兄弟の実質的な世界最初の映画作品は1895年である。つまりヘッセは「西部劇映画」を見ていないのである。

そこでヒントとなるのがカール・マイ(Karl Friedrich May1842-1912)である。

彼は服役中に本に接し、刑務所を出所した後に文学を目指した人で、アメリカ先住民族を主人公にした冒険小説で有名な作家である。代表作は『ヴィネトゥの冒険 -アパッチの若き勇者』で各国語に翻訳されている。

つまりこの当時のドイツの「インディアンごっこ」はアメリカ先住民族が主人公の遊びなのだ。

ジョン・トーランド著『アドルフ・ヒトラー』によると、ヒトラーも少年のとき近所の子供たちを集めてインディアンごっこに熱中していて、熱読していたのは、ジェームズ・フェニモア・クーパーとカール・マイだったという。

ちなみにカール・マイはアメリカに行ったことがなかった。
このマイの代表作は筑摩書房から2003年に出たというのに、なんと入手難であり、図書館にもなかなかないのだ。だから内容を確認できていないが、ドイツで今でも遊ばれている「インディアンごっこ」は、アメリカ先住民族の服を着たり、それらしいテントを張って寝泊りしたり、バッファローを狩るゲームなどをするらしい。

つまり敵対勢力は登場しないのだ。
アメリカ大陸に行ったことのないマイがどのようにしてアメリカ先住民族を主人公にした冒険小説が書けたのか大いなる疑問があるが、書籍が入手難ではどうしようもない。

ただ、ヘッセが本中で触れている「Indianerspiel」がどういうものであるか?そして何を起源にしているかが分かったように思う。そしてspielがここでは「ごっこ」であることも確認できたように思う。但し、すべて推測の域を出ないことはお断りをしておく。

植村敏夫は「インド人遊び」と訳しているが、ご本人は何をイメージして翻訳されたのか是非聞きたいと思うのだが…