ジャンジャン横丁
問屋街が終わるあたりが道頓堀で、そこを少し進み国立文楽劇場の前を通って、日本橋から地下鉄に乗り動物園前で降りた。
そこまで足を延ばしたのはジャンジャン横丁で呑みたいと思ったからだ。
ジャンジャン横丁は旧飛田遊廓の入り口に当たり、三昧線を呼び込みで鳴らしたため、そう呼ばれたと言う。また、林芙美子の小説「めし」の舞台にもなった困窮者の集まる所でもある。2メートルにも満たない道の両側に立ち呑みの店やホルモン焼きの店や将棋道場がひしめいている非常に狸雑な空間である。
飛田遊廓は現在でも「遊廓」を形成している非常に稀な地域で、のれんのかかった玄関に女性がひとり座っていて、そばに「おばさん」(歴史的表現を使うとやり手ばばあ)がいる。そんな玄関が何軒と連なっており、客は一軒一軒冷やかして歩き、気に入った女性がいると「おばさん」と交渉しそれがまとまると登廓する。
地域的にも、法律的にも非常に不思議な空間である。
飛田に隣接しているのが「釜ケ崎」で、日本一の日雇い労働者の町である。
その関係は東京の吉原と山谷の関係に似ている。
さらにどちらも行政的に地名を消されている。
行政上で「釜ケ崎」という地名は無い。現在では「あいりん地区」という呼び方をされている。東京の吉原も山谷も地名としては残っていない。また、翌日に行こうと思っている在日韓国朝鮮人達の町「猪飼野」(いかいの)も地名として残されていない。行政の意図はそんなところから露骨にわかる場合がある。
地下鉄の駅名の「動物園」は天王寺動物園の事で、それは天王寺公園の中にある。
何年か前に「天王寺博」という行政の企画したイベントがあり、その時に公園を有料化にした。あきらかに底辺の人々をそこから追い出す意図からだと思う。また、関西国際空港の玄関口の「体裁」から「再開発」という名の貧者追い出しは始まっている。
「動物園前」で降り飛田を右に見ながら東へ進むとジャンジャン横丁の入り口にあたるJRのガードになるが、そこへ行くまでは山谷を感じる。教会の前では夕方の食糧の配給を待つ労働者が集まっているし、ドヤの入り口では部屋の決まる順番を待っている人達がいる。
ガード下ではホームレスの人達が何人か茣蓙に座ってギターの伴奏で演歌を歌っていた。その人達を囲んで立ち止まって聴いている人達も少なくない。ガードを潜り抜けるとジャンジャン横丁に入っていたが、正直言って圧倒される雰囲気で、それは想像を遥かに凌駕していた。狭い路地に人々はぶつかるように行き交い、将棋道場の前では黒山の人だかりである。
子供達は三輪車でその雑踏の中で遊んでいる。
ここには名物の「どてやき」や「串焼き」や「串かつ」の店があるのだが、私は東京にいる段階から「丸徳」で泡盛を呑もうと決めていた。
丸徳は琉球料理で泡盛を呑ませる店である。
ジャンジャン横丁を抜けて少しまがった所に丸徳はあった。
カウンターだけで、全員で10人ほどしか入れない店である。カウンターの中には歳取った女性がひとりいるのみ。さもよく知っているという風に丸椅子に座り「豚足と泡盛」と注文した。
するとその女性は「塩?味噌?」と聞いてきた。
また「熱いの?冷たいの?」とも聞いた。私は私がいつも食べている豚足を瞬時に頭に浮かべ「味噌で冷たいの」と言った。
泡盛はコップに並々とついでくれ、豚足は大きく縦に裂いたものがふたつ皿に乗ってきた。それに新聞紙を小さく切った物が添えられている。最初その新聞紙の切り端を何に使うのか見当がつかなかった。3月の古い地方版であかんぼうの写真などが載っている。しばらくして、それが手を拭くためにあると知った。
左右の2組の男性同士の客の話に耳を傾けたが、大阪弁ではなかった。彼らは野球と競馬の話をしていた。しばらくすると歳とった女性がひとりでやって来て、ホルモンうどんだけを食べていった。私はホルモン豆腐と泡盛を頼んだ。そして品書きに「酢のもの」とあったのでそれを頼んだ。
すると「豚の耳よ?」と言われた。
これは私の予想通りだったので「知っています」と言ったが、その言葉は私を「よそ者」と確信した一言でもあった。(あたりまえか)
すると左右の手に傘と杖を持ってデイパックを背負ったおそらく70代後半だろうと思われる老人がやってきて、私の隣に座った。彼はポケットからようやく千円札を出しカウンターの上に出した。すると無言で女性は一杯の泡盛を出した。常連なのだろう。所が彼は一口飲む度にせき込むのだ。私は彼が心配になりだした。彼が倒した杖を拾ってから話し掛けられたが、彼の言葉が全く分からないのだ。
彼は私にライターを見せた。
そのライターは競輪場の名前が入ったライターだった。
私は「競輪場のライターですね」と言うしかなかったが、彼は何が言いたかったのだろう…
その老人は私に頭を下げて帰っていった。
結局何も会話らしいものはできなかった。カウンターの向こうにいる店の女性が私に「どうも、すいませんね」と礼を言ったが、その意味も分からなかった。
私のとなりに若い男女のカップルが座り、男性の方が豚足を頼み「あぶって、塩で」と言った。彼の注文した品がきた時、私が最初注文した時になげかけられた質間の意味が氷塊したのだ。豚足を火であぶって、塩をかけてくれるのだ。それはみるからにうまそうだった…但し連れの若い女性は箸で食べようとしたが…
丸徳を後にした私は再度ジャンジャン横丁に入った。
通天閣からジャンジャン横丁にかけて将棋道場が4軒もある。
坂田三吉が登場した場所だから当然なのかもしれないが、そこは「シンケン師」の場所でもあった。(シンケン師というのは賭将棋を専業とする人達である)現に有名なシンケン師の太田学さんは現在でもその界隈に「棲息」している。(現在では1局500円で指導対局するだけだが)
太田さん達のシンケン時代は今とケタが違う。
千円札の無い時代に1局で3,4万賭けていたという。現在だと何百万になるであろう…だからここで将棋を打っていた人違は皆強かった、強ければスポンサーが付き代打ちがきくからなおさら強くなった。
現に太田さんはシンケン師を引退した後、昭和52年の朝日新聞主催の「朝日アマ名人戦」に参加して優勝している。その時63歳である。
私は太田さんの面影を求めて将棋道場の表から黒山の人をかきわけ覗いた。
表から中を覗いている人達は何時間もそうしているという。窓際で、つまり通りの観客から見えやすい所で将棋を打っている人は、一癖も二癖もあるような人連で、白髪の長髪で着流しだったりする。
私もしばらく眺めていた。長い間使い込まれた駒は鈍く光って美しくさえあった。みんなシンケンで打っているとの事だった。
ジャンジャン横丁を後にして、谷町に向かうべくタクシーに乗った。
目的地は谷町九丁目近くにある近松門左衛門の墓である。
ところが予想どおりにタクシーの運転手さんはそこを知らなかった。なんでも彼が言うには谷町界隈は寺町で寺院がたくさんあると言う。私が地図で場所を示した近くに行って貰う事にした。
「道の真ん中に大きな榎木があって、それを切ろうとすると不吉な事が起こり、結局切れないでいる」狭い通りで下ろされた。確かに道の真ん中に榎木が立っており、小さな鳥居が立てられている。「ほほう」と思いながらも、ひょっとして近松となんら関係がないなとすぐに気が付いた。
ひょっとしたら近松と鶴屋南北と勘違いしたのかもしれない。
しかし、そこがすごく近くである事を感じていたので、道沿いにしばらく歩いた。人に聞こうと思ったのだが、まだ夜の8時台だと言うのに辺りは暗く、例の榎木のせいか歩いている人も皆無だった。そうこうする内に明かりの灯った店舗が見え、その中に入った。そこはバイク屋さんで若い男性二人と女性一人が何か楽しそうに話していた。
私の予想どおり彼らは近松の墓を知らなかった。
「近くにガソリンスタンドないですかね。その脇なんですけど」と私が言うと。その内の一人の青年が「すぐそこの表通りを出た左にありますけど…」と言う。礼を言って今来た道を引き返し、件の榎木の脇を通り表通りに出て、左に曲がるとすぐガソリンスタンドがあった。その手前に1メートルにも満たない路地があった。私は直感で確信し、その人の家の玄関に続くような路地を入った。
その路地は5メートル位行くと左に折れ、すぐそこに小さな墓があった。
そこが近松門左衛門の墓所だった。
本当に小さな、黒い自然石に名前の刻まれた墓石だったが、松浦武四郎の墓石と同じく妻の戒名が並んでいた。私は死後献体を希望し、しかも返却不用の意志表示をしているのだが、妻と二人で戒名が刻まれるというのもいいなと初めて思った。仏教徒でないことがネックだが…
私は当初から墓参するつもりでいたのに線香も水も持っていなかった。しかたなく墓石を撫で回した。できることなら近松の霊が取り憑く事を願って…
近松の墓所を後にし、先ほどガソリンスタンドの場所を聞いたバイク屋さんに礼言いに行った。何と時間にして30秒とかからない距離だった。彼らはそれがあまりに近い所にあり、しかも東京から来た人に教えられた事にびっくりしていた。(多分若いとはいえナニワの人近松は知っていたと思うが…あるいは旅人に話を合わせてくれたか…)
そこは「キキ・バイクショップ」というお店だった。
それから谷町九丁目まで歩き地下鉄に乗った。谷町九丁目は関西JAGAの世話人をしていただいているTさんの自宅のある所で、彼に一声もかけなかった今回の大阪行きを思い少々切ない気分になった。今回は元々わがままを通そうと思ったので関係者には秘密だったし、O氏には「名古屋の仕事の関係で何時に大阪に入れるか分からない」と言ったのだ。
当然翌日学会で会うだろうK氏にも大阪行きは言ってなかった。K氏は木曜晩のTGPでO氏から私が大阪に行くと聞いており、大々的に「大阪で私に会えるかもしれない」とSNSを通じて全国的に宣伝していたが…
地下鉄の南森町から宿舎がある梅田新道まではちょっと時間がある。そこはオフィス街ですでに暗く寂しかったが、その道を歩きながら今日一日の思いにふけっていた。ジャンジャン横丁で泡盛を呑んだこと、将棋道場を長い間のぞき込んで他のヤジ馬と酒臭い息を掛け合いながら「検討会」をした事、道を聞いた若いバイクショップの青年達、そして近松の墓所…
宿舎に帰り顔を洗ってすぐに外出した。食事をとるためでもあったが、元々計画していたゲームを成就させるためでもあった。その宿舎は曾根崎新地と目と鼻の先なのだ。ゲームとは、近松の墓参の後に曾根崎心中の場所となった「お初天神」に詣でるという事であった。
「お初天神」は本当は「露天神」(つゆのてんじん)と言う。
近松の「曽根崎心中」にあるように元禄16年(1703年)に醤油屋平野屋の手代徳兵衛と北の新地の天満屋の遊女お初がこの森で心中したことから「お初天神」と呼ばれるのだが、「縁結び」の「かみさん」なのだと言う。
心中が縁結びとは言えなくないが、その解釈の仕方は好きである。
また、「縁結び」の故ではないのだろうけど、その辺一休は飲食店街、繁華街になっている。
「お初天神」に参拝したら、境内は若い男女でいっぱいで、少々意外だった。飲食店や風俗店が並ぶアーケードを一人で歩くと、「客引き」に会うのである。客引きは女性もいれば男性もいる。彼女、彼らを丁寧に断りながら食べる店を探すのだが、どこもグループ客で混んでいるのだ。あまりに私が同じ道を通るので、客引きのとても若い女性がこう言って来た。
「なに食べたいの?」
彼女は金色の長い髪をしていて、派出なTシャツにジーンズをはいていて、東京では絶対にいないタイプの「客ひき」であった。彼女のその言葉は、私が当初彼女の誘いの断りに「晩飯食べに来ただけだから」と言っていたからだが、その言い方は子供に言う言い方に似ていて、なんとも憎めない口振りだった。
「なんでもいいんだげど、混んでるし、一人だと入りづらくて…」
それならとミンミンという餃子屋を勧めてくれた。安くて、カウンターだけだから一人客に丁度いいというのが理由だった。
私は彼女に道を聞いてその店に行った。
そこは餃子の専門店で、餃子が1人前300円という店だった。そこで肉いため料理と餃子をもらいビールを呑んだ。周りの客もほとんど一人客で寡黙に食事するだけだった。お店の人も大半が中国の人らしく、日本語は聞かれなかった。
ゆっくり食事を終え、この店を教えてくれた女性に礼を言おうと思ってさきほどの場所に引き返したが、時間が1時を回ったせいか別のコワモテの男性が立っていた。