leraのブログ -28ページ目

leraのブログ

自らの文章のアーカイブと考えている

ジャズ喫茶『ネフェルティティ』

 この店を知ったのは偶然だ。

 千葉県の柏に行った知人が賑やかな街なので驚いたという話をきき、ジャズ屋がないかとネット検索してヒットしたのだ。
 今ジャズ喫茶は都内ではなかなかない。
 地価・家賃の問題や騒音の問題があるからだ。だから、探そうと思うと東京近隣にいい店が多いということになる。
 私がここで言っているのはレコード演奏店としてのジャズ喫茶だ。





 場所は柏から東武線に乗り換えてふたつめの増尾。そこから徒歩20分ほど。
 ニッカウィスキーの工場が近くにあるとのことで、前の道路はニッカ通りとなっている。
 外観がちょっと変わっていて多角形であった。(後に12角形だと分かる)この多角形が音のヌケを良くしている。






 中に入るとおとなし目のピアノ曲がかかっていて、お客の何人かはランチのカレーを食べていた。(後にカレーが自慢だと分かる。確かに美味しそう)スピーカーのある一角がステージになっていてドラムセットが置いてある。脇にアップライトピアノも見える。



 私がテーブルに座ると、突然音が大きくなった。
 スピーカーはJBL-S4700。ベースのアルコがよく響く。
 ちょっとエキセントリックな感じもあるがtsも良く響く。

All the Gin is Gone/Jimmy Forrest(DELMARK)
Grant Green(g),Halold Mabern(p),Gene Ramey(b),Elvin Jones(ds)

Jimmy Forrestのブローが気持ちいいほどいきわたる。不遇なテナーマンに気持が傾く。

 店主がリクエストはないかと聞いてくれる。
 あまりリクエストはせずに店のチョイスを楽しむタイプなのだが、こういった装置の場合よく知っているレコードで聴いてみたいと思わせる。

Sahib ShihabかSonny Crissを聴きたいと思い2000枚ほどあるレコード棚を探ったが目当てのものがなかったので、Junior ManceのSoulfull Pianoを選ぶ。

 メニューがタブレットになっていて、そのままネットに繋がる。
 店主がある人の感想が載っているというサイトを示した。
 そこにはelectric Milesを聴いてとてもよかったと書かれていた。
 また「ジャズ批評」の取材があっとときに店主は「ロックをきいていて、突然床屋で聴いたジャズに驚いた」となっていて、そのジャズというのがelectric Milesだと言う。

 ならばelectric Milesを聴きたいと思い、急遽リクエストをJack Johnsonに変更してもらう。
 ところがSoulfull PianoもA面の2曲をかけてくれた。
 シンプルなピアノトリオもいい。

 かなりの音量で始ったJack Johnsonは、まずMilesのハイノートがヌケル、ヌケル。突っ走る爽快感を感じる。ミュートになってサイドがウワーンウワーンとなるところは音が回り幻想的。そこに調和を破壊するようなスリリングなssがかぶる。
 そしてorg,tp,gとソロが続くところはものすごい迫力。
 聴いてる方がぶっとぶ感じ。

 Jack Johnsonはテオ・マセロのはさみが入っているし、もともと映画音楽だから嫌う人もいると聞くが、この迫力は並大抵ではない。
 このアルバムを始めて聴いたのは新宿歌舞伎町にあったヴィレッジゲートで、その頃はロックも良く聴いていたので余計ショックが大きかったのだと思う。
 そのとき一緒に聴いていた伊藤も河方も既に鬼籍に入っている。

 店主が酒好きとのことで、酒が日本酒、焼酎、ウィスキーと揃っている。
 ウィスキーはニッカの工場があるからだと思うが竹鶴12年がある。これは私も好きなウィスキー。
 近かったら週に何回かは行く店になるだろう…
 店名のNefertitiはMilesとCecil Taylor (Nefertiti, The Beautiful One Has Come)とのダブルイメージか?(Joe Zawinulにダブルイメージという曲があった)

 また帰りがけに店主にPortrait in JazzのEvansに似ていると言われた。
 ベーシストの鈴木良雄に似ているとはよく言われたが、Evansに似ていると言われたのは初めて。

 千葉県は、他に稲毛にCandy(SP:JBL-EVEREST DD66000)というとんでもなく音のいい店がある。付記しておく。

jazz café & bar Nefertiti

system
SP:JBL-S4700
PL:KENWOOD KP-9010
Cartridge:SURE M44G
Pre: Accuphase C-200L
Main:Onkyo Integra M508


ビールは私の好きなハートランド
鶴橋へ

 あくる朝7時に起き、シャワーを浴びたり荷物の整理をしたりして宿舎をチェックアウトした。名古屋で買ったゲームや衣類をコンビニから宅急便で送ろうと思ったものの、コンビニが見つからない。考えてみれば梅田新道から大阪駅に向かっているのであって、東京でいったら八重洲から東京駅に向かっているようなものである。コンビニは確かに少ないだろう。

 大きい荷物を持ったまま大阪駅まで来てしまい、大阪駅に隣接している大阪ターミナルホテルのベルキャプテンにコンビニの場所を聞こうと思ったら、このホテルで送ってくれるという。そのベルキャプテンは女性だが、私の荷物をクロ一クまで持っていってくれた。

ところが、発送伝票に部屋番号かバンケットルーム番号を書き込む所があり、宿泊客か宴会客ではないと本来送れないらしいのだ。それを確認しないで私の荷物を持ってきてしまったベルキャプテンは困ってしまったが、クロ一クの女性が「宴会」とバンケットルーム番号を書かないでなんとかしてくれた。まあ、聞かないベルキャプテンにも問題はあるが、いろんな所で人に迷惑かける男だな、と思わず笑ってしまった。

麻雀放浪記のドサ健はおふくろと好きになった女にはどんなに迷惑かけてもいい、と言っていたが…

 そのホテルのロビーから、昨日松屋町の問屋さんで聞いた室内ゲームの専門店である西野商店に電話をかけると、おばあちゃんが出て土曜は休みだと言う。しかし、小売りしてくれるという言葉を聞いて電話を切った。よっぽど土日と泊まって月曜日に行こうかと思ったがさすが思い留まった。私にも良識があったようだ。

 JR大阪駅から環状線に乗り鶴橋へ行った。
ここは去年の8月に三重県一志町の「松浦武四郎記念館」に行った時に、時間が無くて立ち寄れなかった経緯がある。ここには「猪飼野」という日本最大のコリアタウンがある。先にも述べたが「猪飼野」という地名は消されてしまったが…そしてJRと近鉄奈良線の交差するガードの下に何百軒という店舗を抱えるマーケットを形成している。「鶴橋卸売市場」あるいは「鶴橋商店街」と現在では呼ばれていて、生鮮食糧品、衣料品、雑貨屋、飲食店で充満している。ここでなければ手に入らない物も多い。

 このマーケットにチャンギ(韓国・朝鮮将棋)を売っている店があり、昨年O氏も堺市在位のU氏の紹介で訪れ「ユンノリ」を購入している。その店について東京を発つ前にO氏に聞いた時「ガード下のメリケン商会」と教えてもらった。しかし彼は「絶対見つけられないでしょうからUさんに聞いた方がいいですよ。」と助言を与えてくれたが、その日の午後に遊戯史学会でU氏にお会いするので、逆に連絡がとりにく かった。

 O氏が言ったように、そこは迷路につぐ迷路で、同じ道ですらなかなか通れないといった、アメ横に二重にも三重にも輪をかけたような空間であった。ある雑貨屋が目に入った。そこの店頭では銀食器や人参酒、螺鈿の家具などがあり、遊戯具類は見えなかった。
しかし、探していた店がそこだった。

店名は「神戸商会」といい、そこでチャンギの駒と盤、それにペンニ(コマ)を買った。また、U氏から頼まれているコペル(韓国朝鮮ドミノ)が入らない、など世間話をし名刺を交換した。スッキョンドノリ(官位すごろく)の事を聞いたら、逆にどんなものか教えてほしいと言われた。

 それから食事をしようと思った。
「猪飼野」でホルモンを食べたいと思っていたのだ。
観光ガイドに載っている有名店ではなく、小さな店で食べたいと思ったものの、土曜の午前中では開いてる店が少なく、結局最も有名な「鶴一」の支店に入った。本店は古い店で炭火で食べさせる。だから煙モウモウの中で食べるのだが、支店も炭火ではあるものの例の「無煙ロ一スター」で店内はカフェ・バーのような内装で、お店の人もファッショナブルな制服を着た若い女性ばかりで、「しまった」と思いながらも案内されるままに席に着いた。

 生ビールを呑みながらミノとタンを食べたのだが、ミノは2センチほどもある厚切りであるにも関わらずザックリと食べられ、びっくりする位のウマさだった。アルコール類は「普通」で農酒や法酒やマッコリもなく、こちらの店がそうなのかこの席がそうなのかはわからなかったが、少々残念だった。違法ではあるが「自家製」のマッカリが呑めるのでは、と期待を持っていたのだ。

 鞄から先ほど神戸商会で買ったペンニ(コマ)を出し、袋の所に書いてあるハングルをどう読むのか店の女性に聞いた。これは元々の計画で、それをきっかけに「遊び」の話などを聞きたいと思っていたからだ。所がその女性はハングルが分からず、他の女性も分からず、一人の年長の女性が「ちょっと聞いてきます」と行って厨房の方へ行った。見事に私の期待は裏切られた。

 ずいぶんと時間が経った後に、その女性は厨房の人がメモしてくれた紙を持ってきてくれた。それには「ミンソク・ペンニ」と書かれてあり、意味は民俗独楽という事だった。この独楽はべーごまの原形とも言えるコマで、紐をかけて回した後に、紐でコマの胴を叩き回転が遅くならないようにするのである。「やり方は知っていますか?」と聞かれたが、実際に知っていたので「知っています」と答えたが、実際には他の話が聞きたかった。厨房に入れれば聞けたであろう…

 食事を終え、もうひとつの目的である「ソウル書林」へ行った。そこは韓国朝鮮出版物の専門店である。朝鮮半島の被差別民衆「白丁」(ペクチョン)、あるいは彼らの解放運動の中心となった「衡平運動」に関する書物を探しに行ったのだ。

 「衡平運動」は日本の水平社とも連帯したあるいは先導した大きな運動だったのだが、日韓併合、大東亜戦争という激しい歴史のうねりの中で消滅してしまった。また、私の知る限りの韓国の人に聞いても知らないと言う。しかしソウルオリンピックの時に「町の美化」を理由に不法建築の粗末な住宅を強制撤去した事があったが、それが関連しているのではと思ったものである。

 残念ながら目的の書物は見つからなかった。(ハングルの物はあったのかもしれないが…)しかし、子供の遊びを紹介したパンフレットがありそれを購入した。そこにはチャンギやユンノリやペンニなどが紹介されていた。その他に同胞向けの法律雑誌を2冊買った。再入国問題や参政権問題を扱った啓蒙雑誌である。

 再入国問題と言うのは、日本に住居を有する外国籍の人が外国に「出た」場合、再度日本に入国できる保証がなく、「再入国許可」を得てから出国せねばならない。ところがその許可を取るには時間がかかり、その許可を得ないで出国する場合は時によっては「帰国」できない場合がある。

現にアメリカの音楽大学に留学した在日の女性が再入国許可を得られず裁判になっている。再入国許可を待っていたのでは「入学許可」が消えてしまうために出国したのだ。また、指紋押捺しなかった人に許可しないなど、圧力のツールになってもいる。

遊戯史学会

 その後鶴橋から近鉄奈良線で河内小阪駅へ向かう。
本来の目的である日本遊戯史学会に参加する為である。
会場は大阪商業大学の大会議室。この会議室は実に立派で大きな円卓テーブルが二重にあり、各ブースに同時通訳用の装置も付いている。なんでも入試漏洩事件があった時、ここで記者会見をしたため会議室の立派さだけが有名になってしまった、という事であった。シックなグレイのスーツの制服を着た女性秘書二人がケーキとコーヒーをサービスしてくれる。

 年に2回開かれる学会は会員の多くが関西在住であることもあって、近磯地方で開かれる事が多い。今回のテーマは「関西の暴力団による賭博の現状」である。客演講師は大阪府警刑事課暴力班の課長で、現場からの貴重な話が聞けるのである。しかし、その性質上部外者お断り、写真撮影・録音厳禁、また他言する事も規制された。よってここでも述べる事はできない。

 話は現在の暴力団の実体と賭博の状況、それに本引き賭博(サイと手)の実際だったが、本当に貴重な話が聞けた。また、押収品の数々も見せてもらった。これだけのために東京から参加したK氏、T氏も満足のようすだった。講師は最後のしめくくりにこう言うった。  「研究熱心がこうじて賭場に入ったら困ります」

 また、遊戯史研究の先駆者増川宏一先生や花札研究やギャンブル社会学という学問を専攻している学者たち、その他同好の士が集まり午後2時から5時までの講演と5時半から7時半までの懇親会があっという間に終わってしまった。

 懇親会ではコレクターであり将棋の研究家(世界中の将棋を集めていて、最近もハワイの将棋の情報を得た、とおっしゃっていた。)であるU氏の「古物探し」の話に魅せられた。彼は関西地区の「蚤の市」を丹念にまわって研究者にも誇れるコレクションをなした訳だが、先日も「むべ山かるた」が1000円であるのを発見したと言う。ところが「売約済」の札がかかっていて、売っている人が買った人をどうしても教えてくれなかった。ただ、百人一首が好きなおばあちゃんが額装するのに買ったという事だった。彼がいくら粘ってもその「買い手」は現われず、結局「むべ山」は行方知らずになったと言う。

ところが話はそれで終わらず、あそこで明治時代の軍人将棋(本部が本丸になっているという)を500円で買ったとか、特殊な花牌の入った象牙の麻雀牌を2000円で買ったとか(花牌はだいたい20種くらいある)、大正時代の「八八道具」を1000円で買ったとか…全て素人が売りに出す「蚤の市」である。古書の出方も聞いたが、東京とは比べものにならないのだ。またまた歴史の違いを実感させられた。それだから尚更震災の被害は悔やまれるのである。

 また、ドイツから帰っできたばかりの氏にドイツのゲーム事情を聞いた。
ドイツで優秀なボードゲームが多数出されるのは、冬が寒く、テレビがつまらなく(官営放送しかない)、任天堂(テレビゲーム)がまだ普及してない、という理由だった。ドイツのボードゲームが衰退するのも時間の問題との事だった。

 九州の大牟田の三井かるた記念館から来た学芸員の人に美しいパンフレットをもらったし、松田道弘氏ともお会いできた。

 終了後U氏の自宅に誘われたのだが、そうするともう一泊せざるを得ず、いたしかたなくお断りした。

 翌日の昼には東京ゲームサークルを開けでなければならないT氏と、まだ切符を持っていないK氏と、切符をすでに持っている私とで新大阪へ向かったが、それぞれの状況が違うので結局ばらばらに帰る事になった。

 私はなんとか午後8時40分発の自由席のある最終に乗れた。

 非常にめまぐるしく、よく歩いたこの二日間はたいへん充実していた。大阪という町がそうさせたのかもしれない…私は大阪が好きである。いつでもすぐに新聞を引いて座ったらそこの風景に溶け込めそうな町であり、どこにでも歴史を感じさせるものがあるからだ。  

旅は歩くものだとしみじみ思った。
歩いたから風にあたり、空気に触れ、町に入れた。
ひょっとしたら大変賛沢な旅かもしれないが…

私は若い時にした旅を思い出した。
それは今から思えば実に貴重な「旅」だったのだ。
今回のスケジュールのつまった旅などではなく、ただ歩くための旅ができた。目的地に行くのではなく、歩くのが目的だった旅だった。それはもうできないだろう…
ジャンジャン横丁

 問屋街が終わるあたりが道頓堀で、そこを少し進み国立文楽劇場の前を通って、日本橋から地下鉄に乗り動物園前で降りた。
 そこまで足を延ばしたのはジャンジャン横丁で呑みたいと思ったからだ。
ジャンジャン横丁は旧飛田遊廓の入り口に当たり、三昧線を呼び込みで鳴らしたため、そう呼ばれたと言う。また、林芙美子の小説「めし」の舞台にもなった困窮者の集まる所でもある。2メートルにも満たない道の両側に立ち呑みの店やホルモン焼きの店や将棋道場がひしめいている非常に狸雑な空間である。

 飛田遊廓は現在でも「遊廓」を形成している非常に稀な地域で、のれんのかかった玄関に女性がひとり座っていて、そばに「おばさん」(歴史的表現を使うとやり手ばばあ)がいる。そんな玄関が何軒と連なっており、客は一軒一軒冷やかして歩き、気に入った女性がいると「おばさん」と交渉しそれがまとまると登廓する。
 地域的にも、法律的にも非常に不思議な空間である。

 飛田に隣接しているのが「釜ケ崎」で、日本一の日雇い労働者の町である。
その関係は東京の吉原と山谷の関係に似ている。
さらにどちらも行政的に地名を消されている。
行政上で「釜ケ崎」という地名は無い。現在では「あいりん地区」という呼び方をされている。東京の吉原も山谷も地名としては残っていない。また、翌日に行こうと思っている在日韓国朝鮮人達の町「猪飼野」(いかいの)も地名として残されていない。行政の意図はそんなところから露骨にわかる場合がある。

 地下鉄の駅名の「動物園」は天王寺動物園の事で、それは天王寺公園の中にある。
何年か前に「天王寺博」という行政の企画したイベントがあり、その時に公園を有料化にした。あきらかに底辺の人々をそこから追い出す意図からだと思う。また、関西国際空港の玄関口の「体裁」から「再開発」という名の貧者追い出しは始まっている。

 「動物園前」で降り飛田を右に見ながら東へ進むとジャンジャン横丁の入り口にあたるJRのガードになるが、そこへ行くまでは山谷を感じる。教会の前では夕方の食糧の配給を待つ労働者が集まっているし、ドヤの入り口では部屋の決まる順番を待っている人達がいる。

 ガード下ではホームレスの人達が何人か茣蓙に座ってギターの伴奏で演歌を歌っていた。その人達を囲んで立ち止まって聴いている人達も少なくない。ガードを潜り抜けるとジャンジャン横丁に入っていたが、正直言って圧倒される雰囲気で、それは想像を遥かに凌駕していた。狭い路地に人々はぶつかるように行き交い、将棋道場の前では黒山の人だかりである。
子供達は三輪車でその雑踏の中で遊んでいる。

 ここには名物の「どてやき」や「串焼き」や「串かつ」の店があるのだが、私は東京にいる段階から「丸徳」で泡盛を呑もうと決めていた。
丸徳は琉球料理で泡盛を呑ませる店である。




 ジャンジャン横丁を抜けて少しまがった所に丸徳はあった。
カウンターだけで、全員で10人ほどしか入れない店である。カウンターの中には歳取った女性がひとりいるのみ。さもよく知っているという風に丸椅子に座り「豚足と泡盛」と注文した。
するとその女性は「塩?味噌?」と聞いてきた。
また「熱いの?冷たいの?」とも聞いた。私は私がいつも食べている豚足を瞬時に頭に浮かべ「味噌で冷たいの」と言った。

 泡盛はコップに並々とついでくれ、豚足は大きく縦に裂いたものがふたつ皿に乗ってきた。それに新聞紙を小さく切った物が添えられている。最初その新聞紙の切り端を何に使うのか見当がつかなかった。3月の古い地方版であかんぼうの写真などが載っている。しばらくして、それが手を拭くためにあると知った。

 左右の2組の男性同士の客の話に耳を傾けたが、大阪弁ではなかった。彼らは野球と競馬の話をしていた。しばらくすると歳とった女性がひとりでやって来て、ホルモンうどんだけを食べていった。私はホルモン豆腐と泡盛を頼んだ。そして品書きに「酢のもの」とあったのでそれを頼んだ。
すると「豚の耳よ?」と言われた。
これは私の予想通りだったので「知っています」と言ったが、その言葉は私を「よそ者」と確信した一言でもあった。(あたりまえか)

 すると左右の手に傘と杖を持ってデイパックを背負ったおそらく70代後半だろうと思われる老人がやってきて、私の隣に座った。彼はポケットからようやく千円札を出しカウンターの上に出した。すると無言で女性は一杯の泡盛を出した。常連なのだろう。所が彼は一口飲む度にせき込むのだ。私は彼が心配になりだした。彼が倒した杖を拾ってから話し掛けられたが、彼の言葉が全く分からないのだ。

彼は私にライターを見せた。
そのライターは競輪場の名前が入ったライターだった。
私は「競輪場のライターですね」と言うしかなかったが、彼は何が言いたかったのだろう…

その老人は私に頭を下げて帰っていった。
結局何も会話らしいものはできなかった。カウンターの向こうにいる店の女性が私に「どうも、すいませんね」と礼を言ったが、その意味も分からなかった。

 私のとなりに若い男女のカップルが座り、男性の方が豚足を頼み「あぶって、塩で」と言った。彼の注文した品がきた時、私が最初注文した時になげかけられた質間の意味が氷塊したのだ。豚足を火であぶって、塩をかけてくれるのだ。それはみるからにうまそうだった…但し連れの若い女性は箸で食べようとしたが…
丸徳を後にした私は再度ジャンジャン横丁に入った。

 通天閣からジャンジャン横丁にかけて将棋道場が4軒もある。
坂田三吉が登場した場所だから当然なのかもしれないが、そこは「シンケン師」の場所でもあった。(シンケン師というのは賭将棋を専業とする人達である)現に有名なシンケン師の太田学さんは現在でもその界隈に「棲息」している。(現在では1局500円で指導対局するだけだが)

太田さん達のシンケン時代は今とケタが違う。
千円札の無い時代に1局で3,4万賭けていたという。現在だと何百万になるであろう…だからここで将棋を打っていた人違は皆強かった、強ければスポンサーが付き代打ちがきくからなおさら強くなった。

現に太田さんはシンケン師を引退した後、昭和52年の朝日新聞主催の「朝日アマ名人戦」に参加して優勝している。その時63歳である。

 私は太田さんの面影を求めて将棋道場の表から黒山の人をかきわけ覗いた。
表から中を覗いている人達は何時間もそうしているという。窓際で、つまり通りの観客から見えやすい所で将棋を打っている人は、一癖も二癖もあるような人連で、白髪の長髪で着流しだったりする。
私もしばらく眺めていた。長い間使い込まれた駒は鈍く光って美しくさえあった。みんなシンケンで打っているとの事だった。

 ジャンジャン横丁を後にして、谷町に向かうべくタクシーに乗った。
目的地は谷町九丁目近くにある近松門左衛門の墓である。
ところが予想どおりにタクシーの運転手さんはそこを知らなかった。なんでも彼が言うには谷町界隈は寺町で寺院がたくさんあると言う。私が地図で場所を示した近くに行って貰う事にした。

 「道の真ん中に大きな榎木があって、それを切ろうとすると不吉な事が起こり、結局切れないでいる」狭い通りで下ろされた。確かに道の真ん中に榎木が立っており、小さな鳥居が立てられている。「ほほう」と思いながらも、ひょっとして近松となんら関係がないなとすぐに気が付いた。

ひょっとしたら近松と鶴屋南北と勘違いしたのかもしれない。
しかし、そこがすごく近くである事を感じていたので、道沿いにしばらく歩いた。人に聞こうと思ったのだが、まだ夜の8時台だと言うのに辺りは暗く、例の榎木のせいか歩いている人も皆無だった。そうこうする内に明かりの灯った店舗が見え、その中に入った。そこはバイク屋さんで若い男性二人と女性一人が何か楽しそうに話していた。
 私の予想どおり彼らは近松の墓を知らなかった。

 「近くにガソリンスタンドないですかね。その脇なんですけど」と私が言うと。その内の一人の青年が「すぐそこの表通りを出た左にありますけど…」と言う。礼を言って今来た道を引き返し、件の榎木の脇を通り表通りに出て、左に曲がるとすぐガソリンスタンドがあった。その手前に1メートルにも満たない路地があった。私は直感で確信し、その人の家の玄関に続くような路地を入った。

その路地は5メートル位行くと左に折れ、すぐそこに小さな墓があった。
そこが近松門左衛門の墓所だった。
本当に小さな、黒い自然石に名前の刻まれた墓石だったが、松浦武四郎の墓石と同じく妻の戒名が並んでいた。私は死後献体を希望し、しかも返却不用の意志表示をしているのだが、妻と二人で戒名が刻まれるというのもいいなと初めて思った。仏教徒でないことがネックだが…

 私は当初から墓参するつもりでいたのに線香も水も持っていなかった。しかたなく墓石を撫で回した。できることなら近松の霊が取り憑く事を願って…

 近松の墓所を後にし、先ほどガソリンスタンドの場所を聞いたバイク屋さんに礼言いに行った。何と時間にして30秒とかからない距離だった。彼らはそれがあまりに近い所にあり、しかも東京から来た人に教えられた事にびっくりしていた。(多分若いとはいえナニワの人近松は知っていたと思うが…あるいは旅人に話を合わせてくれたか…)
そこは「キキ・バイクショップ」というお店だった。

 それから谷町九丁目まで歩き地下鉄に乗った。谷町九丁目は関西JAGAの世話人をしていただいているTさんの自宅のある所で、彼に一声もかけなかった今回の大阪行きを思い少々切ない気分になった。今回は元々わがままを通そうと思ったので関係者には秘密だったし、O氏には「名古屋の仕事の関係で何時に大阪に入れるか分からない」と言ったのだ。

当然翌日学会で会うだろうK氏にも大阪行きは言ってなかった。K氏は木曜晩のTGPでO氏から私が大阪に行くと聞いており、大々的に「大阪で私に会えるかもしれない」とSNSを通じて全国的に宣伝していたが…

 地下鉄の南森町から宿舎がある梅田新道まではちょっと時間がある。そこはオフィス街ですでに暗く寂しかったが、その道を歩きながら今日一日の思いにふけっていた。ジャンジャン横丁で泡盛を呑んだこと、将棋道場を長い間のぞき込んで他のヤジ馬と酒臭い息を掛け合いながら「検討会」をした事、道を聞いた若いバイクショップの青年達、そして近松の墓所…

 宿舎に帰り顔を洗ってすぐに外出した。食事をとるためでもあったが、元々計画していたゲームを成就させるためでもあった。その宿舎は曾根崎新地と目と鼻の先なのだ。ゲームとは、近松の墓参の後に曾根崎心中の場所となった「お初天神」に詣でるという事であった。

「お初天神」は本当は「露天神」(つゆのてんじん)と言う。
近松の「曽根崎心中」にあるように元禄16年(1703年)に醤油屋平野屋の手代徳兵衛と北の新地の天満屋の遊女お初がこの森で心中したことから「お初天神」と呼ばれるのだが、「縁結び」の「かみさん」なのだと言う。

心中が縁結びとは言えなくないが、その解釈の仕方は好きである。
また、「縁結び」の故ではないのだろうけど、その辺一休は飲食店街、繁華街になっている。

 「お初天神」に参拝したら、境内は若い男女でいっぱいで、少々意外だった。飲食店や風俗店が並ぶアーケードを一人で歩くと、「客引き」に会うのである。客引きは女性もいれば男性もいる。彼女、彼らを丁寧に断りながら食べる店を探すのだが、どこもグループ客で混んでいるのだ。あまりに私が同じ道を通るので、客引きのとても若い女性がこう言って来た。

 「なに食べたいの?」
 彼女は金色の長い髪をしていて、派出なTシャツにジーンズをはいていて、東京では絶対にいないタイプの「客ひき」であった。彼女のその言葉は、私が当初彼女の誘いの断りに「晩飯食べに来ただけだから」と言っていたからだが、その言い方は子供に言う言い方に似ていて、なんとも憎めない口振りだった。

 「なんでもいいんだげど、混んでるし、一人だと入りづらくて…」
それならとミンミンという餃子屋を勧めてくれた。安くて、カウンターだけだから一人客に丁度いいというのが理由だった。

 私は彼女に道を聞いてその店に行った。
そこは餃子の専門店で、餃子が1人前300円という店だった。そこで肉いため料理と餃子をもらいビールを呑んだ。周りの客もほとんど一人客で寡黙に食事するだけだった。お店の人も大半が中国の人らしく、日本語は聞かれなかった。

 ゆっくり食事を終え、この店を教えてくれた女性に礼を言おうと思ってさきほどの場所に引き返したが、時間が1時を回ったせいか別のコワモテの男性が立っていた。