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leraのブログ

自らの文章のアーカイブと考えている

 私は過去のブログで徴兵制賛成論を書いているが、国際政治学者 三浦瑠麗氏も「豊かな民主国家を好戦的にしないために老若男女を問わない徴兵制を提案」している。

 氏は『シビリアンの戦争』という著書があり、「血のコストを忘れた国民は好戦的になる」と述べている。
嫌韓、反中?…相撲千穐楽

 私のよく行く立ち呑み屋に「ヤマトヤ」という店がある。JR田町の三田口の地上出口を出た所だ。

 ここに中国の若い女性が働いている。
 彼女は、老人が来るととても親切で、女性のひとり客がくると必ず話しかけていて、その気配りに関心する。だから私は彼女を見ていることの方が多い。

 私は相撲好きである。
 普通の好きより、かなり好きである。
 父と父の兄(伯父)が大学で相撲部だった。伯父は学徒で出征したくなくて同じ大学を二回行った人でしかも相撲部だった。

 私の子どもの頃はどこでも相撲大会があり、父に技を教わった私は強かった。
 しかし、それも小学校4年生まで。
 それ以上は体の大きな子に敵わなくなった。

 私は時間が許せば、相撲の千穐楽は「ヤマトヤ」で見るようにしている。
 スポーツバーのように、不特定多数の人が相撲の一番一番に息を殺すという雰囲気が好きだからだ。

 今日の千穐楽、逸ノ城が2敗で支度部屋で待っていて、本割は白鵬と鶴竜である。
 立ち合いから鶴竜に上手を許さない相撲から、完璧というかたちで白鵬が勝った。
 店の中で拍手が起こった。
 拍手は私にとっては初めての経験である。
 私も拍手した。

 白鵬と同じ時代に生きているという幸福を噛みしめて…

 嫌韓、反中というのは国家間のドグマに捉われているのではないか?
 人は会ってみて初めて付き合いやすい人と、そうではない人に別れる。
 ところが付き合いにくい人の場合も、何かがあると変わる場合がある。
 なぜならその人のことなど分らないからだ。
 否、自分のことだって分らない。
 だから嫌韓、反中という人たちは自分を確固たるものとして知っているはずだ。
 そっちの方が不気味だ。
第51回むらた祭 演劇部公演『月並みの女子校生の欲には限界がある~乏しい想像力と貧しい非日常~』

 女子高生の「限界ある欲」とは、カレシ、ガクレキ、ヘンサチ、明るいミライだと言う。
 そして、努力すれば望むものは獲得できる、あるいは達成されると言われる。
 努力の先に自由があるというシステムは時として残酷である。
 なぜなら自由は権原であって得るものではないからだ…

 また、超男性社会における被抑圧階層であることや、矛盾を皮膚感覚で感じている。だからバックラッシュについて冷めた目で見ているところが哀しい。
「1192いい国作ろう安倍晋三」では、彼のジェンダー感覚を見ぬいているし、「男女共同参画社会」についてもその欺瞞性に気づいているし、「早く結婚しろ」「子どもを産め」などのヤジには揶揄にしか再利用されないし、うんざりしている。
 しかし、彼女たちに自由は無い。
 その自由は、女性、高校生というタームに縛られるし、前提として「あるだろう自由」にも抑圧される。
 非日常が乏しいというアイロニカルな叫びには深い哀しみを感じる。

 前回、中央地区大会発表会で観たときは、コントと社会批判をうまく組み込んだ構成力のある等身大のコメディという印象を持った。発表会は半日で7本の演劇を観るというハードスケジュールのため、これだけを観るとしたら印象が変わるのではないかと思ったのだ。

 本日の再観劇では彼女たちの哀しみがひしひしと伝わってきた。それこそ等身大という言葉で語ることのできる彼女たちの世代、あるいは環境にいなければ分らない抑圧や矛盾や無言の圧力を知ることになった。

 エピローグひとつ前で、5人が無言で立ち尽くすシーンには思わず眼頭が熱くなった。
 彼女たちの求めているものは、「自由だ」「自由がある」ではなく、本当の意味の自由なのではないか?

 SEの選曲は効率よく歴史の勉強をやっている曲だが、それはブロイラーのような無惨さを感じるし、効率というところですでに利用されていることが分る。
 コロスが完全な笑顔で、そのギャップが効果を生んでいた。

 5人の役者はそれぞれの特性(地?)をわざとらしくなく出し、たいへん好演していた。

 私の「欲」は、彼女たちが世間という抑圧シテスムから脱出し、自由を獲得することだ。

2014年9月28日 むらた祭にて
作:村田女子高等学校演劇部