映画『めぐりあわせのお弁当』
映画の使命は、シーンという時間を切り取った表現の中に、あたかもその人の人生すべてがあるように思わせることだ。
この作品にあるのは普遍的なテーマである。
自己の欲望を実現すべきか?あるいは他者に影響を与えるべきではないか…というテーマである。
男は俗世と間を置いている。
その原因は定年が近いからか、数年前に妻を失ったか、それはわからない。
それは、道路でボール遊びをしている子どもたちとの対応で分かる。
子どもが嫌いなのではなく、子どもを憎んでいるのでもなく、俗世との関係性を持とうと思っていないのだ。
ただ俗世との関係は自分だけで形成されるものではないので、一方的な意思という言い方はできないかもしれない。
手書き文字の呪術性が窺われる。
手書き文字はその内容以上に相手の感性に働きかける。さらにそれに呼応されるとその呪術性は限りなく昂揚する。
文字が使われる前、それは音(口琴やヴォイス)だったのかもしれない。
文字の呪術性にはもう一面がある。
相手に書いているのに、書いているときは自分だけだ。これは人と話すことと基本的に違う。
このモノローグの交換のような行為はより、自分を自分の内面に近づける。
そこには自分が知りえなかった自分がいる場合がある。
だから自分を見たくて相手に会いたくなるのは必然である。
人を好きになることは、全くの秘匿ではないかぎり、相手に自分の存在を知らしめることである。
そこで、自己の欲望を実現すべきか?あるいは他者に影響を与えるべきではないか…というテーマになる。
男は逡巡の中にある。
列車で席を譲られた時、その逡巡が終わったようだった。
そして隣家の少女が手を振る。
そのシーンに人生が見えないか?
低予算のためキャストが少ないがゆえに、逆に美しいシーンが多かった。
ひとつひとつのシーンにちりばめられた意図が連関していく楽しみもあった。露骨なあるいは無駄なシーンがないためたいへん時間が短く感じた。その点で緻密な脚本といえるだろう。それもダッバーワーラーというシステムがあるから生まれたのだと思う。
実に成熟した映画だと思う。
ただひとつ残念だったのは私では宗教感覚が分からないことで、ムンバイの人ならさらなる深みが用意されているようで羨望の念を抱いた。
原題 The Lunchbox
2013年 インド・フランス・ドイツ
監督・脚本:リテーショ・バトラ
撮影:マイケル・シモンズ
出演:イルファーン・カーン、ニムラト・カウル
大学祭とライヴのハシゴ
2014年11月1日は二つの大学祭に行き、三つのライヴ会場をハシゴした。
一軒目(まるで飲み屋だな)では東京事変のコーピーバンドにいいものがあった。
東京事変のバック演奏はかなり難しく、それがかなりちゃんとできていたので驚きを感じた。編成はg,b,ds,key,vo内key,voが女性。
二軒目は、ジャズのスタンダードをコンボでしっとりと聴かせる喫茶店風会場。
5弦電気bに、g、p,ds,asの編成。
asがルー・ドナルドソンを彷彿とさせるプレイ。gが音もプレイもよく、asとのインタープレイなどなかなか聴かせた。
グループが替わり、女性のclが入る。これがロマンティックな優しい音でいい時間をすごせた。
以上芝浦工業大学軽音楽同好会とjazz喫茶Ken
三軒目は典型的なライブ会場。
Linkin ParkのコピーバンドがGiven upを演奏したのだが、このバンドのvoがdeathっぽいトーンでなかなか迫力があって聴かせた。途中ステージに倒れながら歌い、観客がさわりまくるというパフォーマンスも面白かった。
聴衆が踊りまくりいつもながら「熱い」会場。
30以上のバンドを聞き、ラストまで楽しんだ。
以上駒澤大学ポピュラー研究会。
帰路渋谷で降りて、Mary Janeへ。
ビニールレコードでマイルスを聴いた。
2014年11月1日は二つの大学祭に行き、三つのライヴ会場をハシゴした。
一軒目(まるで飲み屋だな)では東京事変のコーピーバンドにいいものがあった。
東京事変のバック演奏はかなり難しく、それがかなりちゃんとできていたので驚きを感じた。編成はg,b,ds,key,vo内key,voが女性。
二軒目は、ジャズのスタンダードをコンボでしっとりと聴かせる喫茶店風会場。
5弦電気bに、g、p,ds,asの編成。
asがルー・ドナルドソンを彷彿とさせるプレイ。gが音もプレイもよく、asとのインタープレイなどなかなか聴かせた。
グループが替わり、女性のclが入る。これがロマンティックな優しい音でいい時間をすごせた。
以上芝浦工業大学軽音楽同好会とjazz喫茶Ken
三軒目は典型的なライブ会場。
Linkin ParkのコピーバンドがGiven upを演奏したのだが、このバンドのvoがdeathっぽいトーンでなかなか迫力があって聴かせた。途中ステージに倒れながら歌い、観客がさわりまくるというパフォーマンスも面白かった。
聴衆が踊りまくりいつもながら「熱い」会場。
30以上のバンドを聞き、ラストまで楽しんだ。
以上駒澤大学ポピュラー研究会。
帰路渋谷で降りて、Mary Janeへ。
ビニールレコードでマイルスを聴いた。
土左日記雑感、あるいは土佐日記
専門書や研究書を読んだわけでもなく、読書会に備えて一月かけて読み、その読書会での討論が実に面白かったので雑感として残したいと思った。
なぜ「かな」なのか?
私は動機として和歌の入った紀行文を書きたかったのではないか?と思った。
漢文と漢文の間にかなの和歌が入るにはなんとも座りが悪い。よって全文をかなで書くためには「をむな」にならざるを得なかった。
ところが紀行文は日記なので、これは「をとこ」しか書かない。
よって「をとこもすなる…をんなもしてみんと…」となった。
また、創作(フィクション)としての意図もあったのではないか?
中国では詩や記録(ドキュメンタリー)が上位におかれ、フィクションは「小説」と言われ低い位置にあった。その感覚が土左日記の作者にもあり、「をむな」が書いたことにしたほうが無難と思ったのではなかろうか?
また万葉集は漢字表記である。万葉集とは異なり、やまとごころを表現する場合のかなの優位性を主張したものだとも思える。万葉集もかなで表記すべきだったのかも知れないが、まだその土壌がなかったのだろうか?
紀行文?
私は俳句で言う吟行をしたかったのではないかと思う。
それを読み物とし、あるいは文学を目指したのではないかと思った。
もしそうだとすると、「フィクションの紀行文で和歌が入った文学」という革命的文学の登場だと思えるのである。これは更科日記(伊勢物語も入るか?)に続き、奥の細道や山頭火や放哉に続くのかもしれない。
フィクションかノンフィクションか
研究者の多くは、写本で千年も読み継がれた「文学」に権威的な意味を見出そうと「異郷に失った女児に対する嘆き」が最大のテーマだとしているものを多く見かける。
私にはそうは読めない。
船に乗り合わせた人の(あるいは一族郎党)ひとつのモチーフでしかないように思える。
そしてフィクションだと最も思わせるのは「海賊」である。
出なかったのなら一度だけ海賊に対する恐怖心や祈りを記せばいいのに、何度も出てくる。でも海賊は現れない。
これは文章を彩るスペクタクルでありスパイスなのだ。
これは「やまざき」との対比でより鮮明になる。
2月12日、13日のやまざきの記述である。
まるで、無理やり絵日記を書かされた小学生である。
これはドキュメンタリータッチにする手法である。
海賊とやまざきの対比は、この読み物を生き生きとさせている。
重厚な文学というよりライトノベルとして読んだ方が遥かに面白い。SNSで「今日、ここに行ってさ…」という感じではないだろうか?
歌は誰の作?
ここではまずい歌も出てくる。
特に破子を持たせて来た人(1月7日)、名も「今思ひ出でむ」という扱い。誰かへの意趣返しかもしれないが、これも間違いなく作者の作った歌だと思う。
また舵取りの言ったことが31文字になっている(2月5日)というところは、舵取りのキャラを事前に提示してあるため笑えるのである。
作者は歌論ということをしようと思ったのではなく、もっと軽いものにしたかったと思う。ここでもライトノベルを実感させる。
さらに種々の飲食物、風物も興趣を与えライトノベル感を増すのである。
そんなに簡単に船旅ができなかった時代に、多くの興味を感じさせるものだったと思う。
なぜ捨てなかった?
巻末に驚くべき表現がある。
「とまれかうまれ、とくやりてん(む)」
なにはともあれ、こんなものは破り捨てよう、となっているのである。
あの当時(笑)、印刷技術はないから写本しかない。その中で破り捨てるはずだったものが数多く写本され読み継がれたのは「破り捨てる」意思がなかったからだ。
ではなぜ「とまれかうまれ、とくやりてん(む)」と言ったのか?
高らかなライトノベル宣言だと思う。
土左日記は実は革命的な新路線を「文学」に拓いた金字塔なのだ!
剽窃、盗作なんでもあり
12月27日の「さおさせど」の歌は李白の「桃花譚…」を踏まえている、と言う。また、万葉集や古今和歌集を踏まえたものもある。
私が疑問に思ったのは、その「モトねた」を記していないので、当時の読者はみんな分ったのか?ということだ。
印刷も出版もない時代にとうてい多くの写本読者がわかっていたとは思えないのだ。
西山秀人氏が「人の歌だろうが恋の歌だろうが、使えるものはどんどん使うというのが、当時の歌づくりの常」(角川『土佐日記(全)』p.128)と言っていて疑問は氷解した。
もともと商売ではなかったからだろうが、このダイナミズムはおもしろい。
また後世の学者に大いなる楽しみも与えたと思った。
エロースもちゃんと
読み物にはロマンスやエロースはつきものである。
室津のところでは、女性の沐浴シーンがあるし、「いずし」「ほや」「すしあはび」があり「脛にあげて見せける」となる。
笑いのあるエロ場面で、物語に彩を与えている。
最後に
読書会参加者全員が「おもしろい」と言った。
逆になぜ学生の時にこの面白さに至らなかったのか?
それは正確に読もうとするために文法中心だったからだし、受験という壁があったからだという結論に達した。
現在のライトノベルだって正確な表現を求めて(時として作者の意図からはずれ)文法中心に分析していったらつまらないものになってしまうだろう。
まず文を楽しむことが大事、となった。
専門書や研究書を読んだわけでもなく、読書会に備えて一月かけて読み、その読書会での討論が実に面白かったので雑感として残したいと思った。
なぜ「かな」なのか?
私は動機として和歌の入った紀行文を書きたかったのではないか?と思った。
漢文と漢文の間にかなの和歌が入るにはなんとも座りが悪い。よって全文をかなで書くためには「をむな」にならざるを得なかった。
ところが紀行文は日記なので、これは「をとこ」しか書かない。
よって「をとこもすなる…をんなもしてみんと…」となった。
また、創作(フィクション)としての意図もあったのではないか?
中国では詩や記録(ドキュメンタリー)が上位におかれ、フィクションは「小説」と言われ低い位置にあった。その感覚が土左日記の作者にもあり、「をむな」が書いたことにしたほうが無難と思ったのではなかろうか?
また万葉集は漢字表記である。万葉集とは異なり、やまとごころを表現する場合のかなの優位性を主張したものだとも思える。万葉集もかなで表記すべきだったのかも知れないが、まだその土壌がなかったのだろうか?
紀行文?
私は俳句で言う吟行をしたかったのではないかと思う。
それを読み物とし、あるいは文学を目指したのではないかと思った。
もしそうだとすると、「フィクションの紀行文で和歌が入った文学」という革命的文学の登場だと思えるのである。これは更科日記(伊勢物語も入るか?)に続き、奥の細道や山頭火や放哉に続くのかもしれない。
フィクションかノンフィクションか
研究者の多くは、写本で千年も読み継がれた「文学」に権威的な意味を見出そうと「異郷に失った女児に対する嘆き」が最大のテーマだとしているものを多く見かける。
私にはそうは読めない。
船に乗り合わせた人の(あるいは一族郎党)ひとつのモチーフでしかないように思える。
そしてフィクションだと最も思わせるのは「海賊」である。
出なかったのなら一度だけ海賊に対する恐怖心や祈りを記せばいいのに、何度も出てくる。でも海賊は現れない。
これは文章を彩るスペクタクルでありスパイスなのだ。
これは「やまざき」との対比でより鮮明になる。
2月12日、13日のやまざきの記述である。
まるで、無理やり絵日記を書かされた小学生である。
これはドキュメンタリータッチにする手法である。
海賊とやまざきの対比は、この読み物を生き生きとさせている。
重厚な文学というよりライトノベルとして読んだ方が遥かに面白い。SNSで「今日、ここに行ってさ…」という感じではないだろうか?
歌は誰の作?
ここではまずい歌も出てくる。
特に破子を持たせて来た人(1月7日)、名も「今思ひ出でむ」という扱い。誰かへの意趣返しかもしれないが、これも間違いなく作者の作った歌だと思う。
また舵取りの言ったことが31文字になっている(2月5日)というところは、舵取りのキャラを事前に提示してあるため笑えるのである。
作者は歌論ということをしようと思ったのではなく、もっと軽いものにしたかったと思う。ここでもライトノベルを実感させる。
さらに種々の飲食物、風物も興趣を与えライトノベル感を増すのである。
そんなに簡単に船旅ができなかった時代に、多くの興味を感じさせるものだったと思う。
なぜ捨てなかった?
巻末に驚くべき表現がある。
「とまれかうまれ、とくやりてん(む)」
なにはともあれ、こんなものは破り捨てよう、となっているのである。
あの当時(笑)、印刷技術はないから写本しかない。その中で破り捨てるはずだったものが数多く写本され読み継がれたのは「破り捨てる」意思がなかったからだ。
ではなぜ「とまれかうまれ、とくやりてん(む)」と言ったのか?
高らかなライトノベル宣言だと思う。
土左日記は実は革命的な新路線を「文学」に拓いた金字塔なのだ!
剽窃、盗作なんでもあり
12月27日の「さおさせど」の歌は李白の「桃花譚…」を踏まえている、と言う。また、万葉集や古今和歌集を踏まえたものもある。
私が疑問に思ったのは、その「モトねた」を記していないので、当時の読者はみんな分ったのか?ということだ。
印刷も出版もない時代にとうてい多くの写本読者がわかっていたとは思えないのだ。
西山秀人氏が「人の歌だろうが恋の歌だろうが、使えるものはどんどん使うというのが、当時の歌づくりの常」(角川『土佐日記(全)』p.128)と言っていて疑問は氷解した。
もともと商売ではなかったからだろうが、このダイナミズムはおもしろい。
また後世の学者に大いなる楽しみも与えたと思った。
エロースもちゃんと
読み物にはロマンスやエロースはつきものである。
室津のところでは、女性の沐浴シーンがあるし、「いずし」「ほや」「すしあはび」があり「脛にあげて見せける」となる。
笑いのあるエロ場面で、物語に彩を与えている。
最後に
読書会参加者全員が「おもしろい」と言った。
逆になぜ学生の時にこの面白さに至らなかったのか?
それは正確に読もうとするために文法中心だったからだし、受験という壁があったからだという結論に達した。
現在のライトノベルだって正確な表現を求めて(時として作者の意図からはずれ)文法中心に分析していったらつまらないものになってしまうだろう。
まず文を楽しむことが大事、となった。

