土左日記雑感、あるいは土佐日記
専門書や研究書を読んだわけでもなく、読書会に備えて一月かけて読み、その読書会での討論が実に面白かったので雑感として残したいと思った。
なぜ「かな」なのか?
私は動機として和歌の入った紀行文を書きたかったのではないか?と思った。
漢文と漢文の間にかなの和歌が入るにはなんとも座りが悪い。よって全文をかなで書くためには「をむな」にならざるを得なかった。
ところが紀行文は日記なので、これは「をとこ」しか書かない。
よって「をとこもすなる…をんなもしてみんと…」となった。
また、創作(フィクション)としての意図もあったのではないか?
中国では詩や記録(ドキュメンタリー)が上位におかれ、フィクションは「小説」と言われ低い位置にあった。その感覚が土左日記の作者にもあり、「をむな」が書いたことにしたほうが無難と思ったのではなかろうか?
また万葉集は漢字表記である。万葉集とは異なり、やまとごころを表現する場合のかなの優位性を主張したものだとも思える。万葉集もかなで表記すべきだったのかも知れないが、まだその土壌がなかったのだろうか?
紀行文?
私は俳句で言う吟行をしたかったのではないかと思う。
それを読み物とし、あるいは文学を目指したのではないかと思った。
もしそうだとすると、「フィクションの紀行文で和歌が入った文学」という革命的文学の登場だと思えるのである。これは更科日記(伊勢物語も入るか?)に続き、奥の細道や山頭火や放哉に続くのかもしれない。
フィクションかノンフィクションか
研究者の多くは、写本で千年も読み継がれた「文学」に権威的な意味を見出そうと「異郷に失った女児に対する嘆き」が最大のテーマだとしているものを多く見かける。
私にはそうは読めない。
船に乗り合わせた人の(あるいは一族郎党)ひとつのモチーフでしかないように思える。
そしてフィクションだと最も思わせるのは「海賊」である。
出なかったのなら一度だけ海賊に対する恐怖心や祈りを記せばいいのに、何度も出てくる。でも海賊は現れない。
これは文章を彩るスペクタクルでありスパイスなのだ。
これは「やまざき」との対比でより鮮明になる。
2月12日、13日のやまざきの記述である。
まるで、無理やり絵日記を書かされた小学生である。
これはドキュメンタリータッチにする手法である。
海賊とやまざきの対比は、この読み物を生き生きとさせている。
重厚な文学というよりライトノベルとして読んだ方が遥かに面白い。SNSで「今日、ここに行ってさ…」という感じではないだろうか?
歌は誰の作?
ここではまずい歌も出てくる。
特に破子を持たせて来た人(1月7日)、名も「今思ひ出でむ」という扱い。誰かへの意趣返しかもしれないが、これも間違いなく作者の作った歌だと思う。
また舵取りの言ったことが31文字になっている(2月5日)というところは、舵取りのキャラを事前に提示してあるため笑えるのである。
作者は歌論ということをしようと思ったのではなく、もっと軽いものにしたかったと思う。ここでもライトノベルを実感させる。
さらに種々の飲食物、風物も興趣を与えライトノベル感を増すのである。
そんなに簡単に船旅ができなかった時代に、多くの興味を感じさせるものだったと思う。
なぜ捨てなかった?
巻末に驚くべき表現がある。
「とまれかうまれ、とくやりてん(む)」
なにはともあれ、こんなものは破り捨てよう、となっているのである。
あの当時(笑)、印刷技術はないから写本しかない。その中で破り捨てるはずだったものが数多く写本され読み継がれたのは「破り捨てる」意思がなかったからだ。
ではなぜ「とまれかうまれ、とくやりてん(む)」と言ったのか?
高らかなライトノベル宣言だと思う。
土左日記は実は革命的な新路線を「文学」に拓いた金字塔なのだ!
剽窃、盗作なんでもあり
12月27日の「さおさせど」の歌は李白の「桃花譚…」を踏まえている、と言う。また、万葉集や古今和歌集を踏まえたものもある。
私が疑問に思ったのは、その「モトねた」を記していないので、当時の読者はみんな分ったのか?ということだ。
印刷も出版もない時代にとうてい多くの写本読者がわかっていたとは思えないのだ。
西山秀人氏が「人の歌だろうが恋の歌だろうが、使えるものはどんどん使うというのが、当時の歌づくりの常」(角川『土佐日記(全)』p.128)と言っていて疑問は氷解した。
もともと商売ではなかったからだろうが、このダイナミズムはおもしろい。
また後世の学者に大いなる楽しみも与えたと思った。
エロースもちゃんと
読み物にはロマンスやエロースはつきものである。
室津のところでは、女性の沐浴シーンがあるし、「いずし」「ほや」「すしあはび」があり「脛にあげて見せける」となる。
笑いのあるエロ場面で、物語に彩を与えている。
最後に
読書会参加者全員が「おもしろい」と言った。
逆になぜ学生の時にこの面白さに至らなかったのか?
それは正確に読もうとするために文法中心だったからだし、受験という壁があったからだという結論に達した。
現在のライトノベルだって正確な表現を求めて(時として作者の意図からはずれ)文法中心に分析していったらつまらないものになってしまうだろう。
まず文を楽しむことが大事、となった。